聖夜
見上げた空には、どんよりとした灰色の分厚い雲が敷き詰められている。その曇天と良く似た色のコートを身に纏い、リョウはおぼつかない足取りで街を歩いていた。
十二月二十四日の華やいだ街は、普段よりもその輝きを増していた。広間には豪勢なクリスマスツリーが置かれ、商店街を覗けばどの店にもクリスマスリースが飾られている。そんな街をゆく家族連れや恋人達は、皆一様に幸せそうな笑みを浮かべていた。この煌(きらめ)いた街で浮かない顔をしているのは、今のところリョウだけだ。
かじかんだ手を擦り合わせながら、大きくため息をつく。吐息は白く染まり、街の汚れた空気に溶けていった。商店街には数年前に流行ったクリスマスソングが流れている。行く当てもなくさまよっていたリョウは、立ち止まって俯いた。
これからどうすればいいんだろう。もしもこの空の向こうに神様というのがいるのだとしたら、助けてくれと本気で思う。
――ほんの数時間前のことだ。親友が、車にはねられた。
自分の少し後ろを歩く永村を振り返ったとたん、急ブレーキの音と一緒に迫ってくる黒いものを見た。永村は長い腕でリョウを思いっきり突き飛ばし、そのまま黒の高級外車にはね飛ばされた。
宙を舞う永村の長躯。地面に打ち付けられた白い額を伝う、真っ赤な血。少し遠くへ飛んでいった、血糊がべったり付着した永村の眼鏡。リョウは呆然と、突き飛ばされてしりもちをついた姿勢のままそれを眺めていた。
よろよろと立ち上がって永村に近寄ってみたが、彼はぴくりとも動かずに横たわったままだった。野次馬があつまってくる。永村をはねた高級外車は既にどこかへ逃走したあとで、地面に横たわった永村と呆然と立ちすくんでいるリョウだけが野次馬の真ん中に取り残された。
何かしなきゃ、そう思ってポケットに手を突っ込むと、携帯が手に触れた。救急車を呼んで救急隊員に永村を任せて、リョウは救急車に一緒に乗り込んで一心に永村を呼び続けた。それでも永村が意識を取り戻すことはなく、病院についてすぐに永村はストレッチャーで院内へ運ばれていった。ストレッチャーを運ぶ看護士の一人が、集中治療室という単語を口にしていた気がする。
しばらくして、リョウは医者に呼ばれた。医者は、永村について知りたがっているようだった。リョウは、永村について知っていることの殆どを医者に話した。年齢も誕生日も血液型も、喘息もちで気管支が弱いことも。何を言って良いか解らなかった。だが、この医者が永村を助けてくれるのなら、知っている情報は全て彼に与えたかった。
医者はそんなに背が高い方ではなかったが、小柄なリョウはその医者を否応にも見上げることになった。そうすると自分の無力さが身長差となってあらわれているような気がしてきて、何となく嫌だった。
「先生、永村は助かるんですか」
「何ともいえないよ。意識が回復してみないと、何ともいえない」
曖昧な医者の答えに、リョウは膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めた。一体どうしてこんなことになっているのだろう。なぜ永村は、自分を庇(かば)ったりなんてしたのだろう。永村はクラスでも多くの生徒から信頼されていて、成績も運動能力も良好で、自分なんかより絶対良い人間なのに。どうせなら、永村の代わりに自分がはねられたかった。そう考えると永村に申し訳なくて、涙が浮かんできそうになる。
「君は一旦家に帰りなさい。しばらくしたら、また見舞いに来ればいいから」
医者の同情するような言葉で、リョウは俯いたまま席を立った。それきり、振り返ることなく病院を後にした。
ただ、悔しかった。永村をはねた外車や、永村を救えなかった自分が憎らしくて仕方なかった。後悔と自責だけが、頭の中を渦巻いている。
そして現在、リョウは夕刻の街を行く当てもなくふらついていた。本来なら、永村と二人でこうして街を歩く予定だったのに。
受験生だから遊べる時間も少ないし、お互い別の塾に行っているリョウと永村の予定はなかなか合わなかった。だから、実質的に今日が今年永村に会える最後の日だった。それなのに、今年どころか永遠に永村と会えない可能性すら出てきた。悔しくて、悔しくて、泣きたくなる。どうして自分は、こんなにも無力なのだろう。
思い返すとあの事故はあまりに衝撃的で、リョウの足は自然と病院とは反対方向に向かっていた。もし病院に戻って『永村が死んだ』なんて言われたらと思うと、怖くて引き返せなかった。
ぼんやりと歩き続けていると、一軒の書店の前に出た。古めかしいその書店の窓を覗いてみると、店内には誰もいないように見えた。
そういえば、永村は本を読みたがっていた。タイトルは忘れたが、最近話題の映画の原作だということは覚えている。リョウはドアを押し開けて、店内に足を踏み入れた。小ぢんまりしたその書店には、紙の匂いが充満していた。
入り口付近の平台を見ると、永村が読みたいと言っていた本が見つかった。あらすじを読んで本の内容を確かめ、帯に『映画化決定』と書いてあるのを見る。間違いないと解ったうえでリョウはその本をレジに持っていき、なけなしの小遣いで本を買った。店員は七十から八十に見える年老いた男性で、薄い白髪と丸眼鏡が絵本に出てくるサンタクロースによく似ていた。
老人のエプロンには、書店の名前と老人の名前が縫い取ってあった。このサンタクロース似の老人は、曽木というらしい。
「浮かない顔をしておるね」
老人はリョウが買った本を袋に入れ、なぜか百円玉を手渡してきた。財布にある小銭を纏(まと)めて、釣銭が出ないように代金を渡したのに。一応受け取ってから不審に思って彼を見ると、彼は人の良さそうな笑みを浮かべてリョウを見つめた。
「物事を悪いほうにばかり考えておらんかの? 信じ続ける気持ちがあれば、きっと全て良い方向に変わる」
「信じるとか、良い方向とか! だって、俺のせいであいつは今」
思わず言い返してから、老人がリョウと初対面で全く面識が無い人間なのだということを思い出して沈黙する。すると老人はしゃがれ声で笑い、リョウに手を差し出した。
差し出された手には、大粒のキャンディが二つ載っていた。キャンディを包んでいるセロファンは、赤と白のストライプ。どこのメーカーでどんな味なのか、外見で判断することはできなかった。怪訝に思って老人を見る。老人はゆったりと微笑みながら、リョウを深い眼差しで見つめた。
「奇跡が起こるかもしれんよ、なにせ聖夜じゃからの」
リョウの骨ばった手をとって、老人は皺(しわ)だらけの手でリョウにキャンディを押し付けた。リョウは手のひらに押し付けられたキャンディを見下ろし、それから老人を見上げた。
奇跡なんて起こりえない。こんな自分に運なんてもう残っていないだろう。リョウは罪人だ。親友がはねられたのに自分だけのこのこ生き延びた、罪人だ。こんな罪人に、幸運なんて二度とないだろう。悩みやすく、自分を追い込みやすい性格のリョウは、既に自己嫌悪のループに引きずり込まれていた。
「そんなもの」
「信じなさい。おきるとも言い切れんが、おきないとも言い切れないじゃろう」
否定しようと口を開いたリョウをさえぎって、老人は相変わらず穏やかな口調で言った。奇跡なんて起こりえない、それでも永村に生きていて欲しいのは事実だ。永村が目を覚まして一緒に学校に行けるようにさえなれば、リョウは他に何も望まない。
――そうだ、永村が生きていればそれだけでいい。彼に会いに行かなければ。
くるりとカウンターに背を向け、店を出ようとした。背中から、老人の声がかかる。
「大切な人と、一つずつじゃよ。欲張りはいかん」
「……ありがとうございます」
店の中を振り返って微笑すると、老人は軽く手を振ってくれた。外に出てみるともうすっかり日は暮れていて、クリスマス・イヴの街角には洋楽のクリスマスソングが静かに響いている。
小脇に本を抱え込み、リョウは駆け出した。手に握ったキャンディが溶けてしまわぬよう、ポケットに入れながら走った。綺麗に包装されたクリスマスプレゼントを抱えた男性や幸せそうなカップルたちが、コートの裾を翻しながら必死に走るリョウを振り返る。そんなことにも構わず、リョウは走った。病院の方向へ向かって、ひたすら走った。
自動ドアが開くまでの間ももどかしく、身体が滑り込めるだけの幅が開いたとたんに院内へ駆け込む。受付窓口の女性が何か言ったが、無視して走り続ける。車椅子に乗った青年や点滴をしながら歩いている少女とぶつかりそうになりながらも、リョウは何とか走り続けた。
走りながら、あの医者を探す。永村の病室は知らないから、彼に教えてもらわなければ永村に会えない。あの医者はどこだろう。永村はどこだろう。
走り、階段を上がり、また走り続けていると、個室が並んだ廊下に出た。白衣姿の黒髪を探していたリョウだが、視界の隅に永村という字が映った気がして立ち止まった。
602、永村裕也。間違いない、永村だ。
個室の扉を開け放つと、こげ茶色の髪をした少年が真っ白なベッドに横たわっていた。家族や面会人らしき人は誰もいない。リョウは永村に駆け寄って、その顔を覗き込んだ。
永村は目を閉じていたが、呼吸は正常にしていた。額に巻かれた包帯と腕につけられている点滴が、永村の生命をより希薄に感じさせてくれた。
リョウは持っていた本を永村の枕元に置き、ベッドサイドに作りつけてあるテーブルを見た。そこには、血まみれで転がっていたはずの眼鏡がおいてある。誰かが拾って届けてくれたのだろうが、レンズに傷がついているしフレームは曲がっているので、永村が回復してもこれは必要ないかもしれない。
「ごめん」
一言呟く。だが、この静かな部屋には、心電図を表示した器具の規則正しい電子音が響いているだけだ。永村は目を覚まさないし、リョウも次に何と言えば良いのか解らずに黙り込んだ。
いつもの快活な笑みはそこにはない。永村らしい、知的で怜悧な表情もそこにはない。永村は眠ったような顔で、静かにただ息をしている。
リョウの漆黒の髪とは違ってこげ茶色をした、男にしては細い髪。良く見ると永村のその細い髪には、所々固まった血がこびりついていた。
生きている、それだけで安堵はした。しかし、この先もしも永村が目覚めなかったらと思うと、リョウは断崖の縁に立たされているような恐怖感を覚えた。
「なあ、永村。クリスマスプレゼントだよ」
怖かった。もしも永村がこのまま目を開けなかったら、どうなる?
「ほら、お前読みたがってたじゃん。タイトル解らなかったから、あらすじで選んで買ってきたんだけど」
恐怖感に任せて話しかけた。リョウの声は、静かすぎる病室に空しく響く。瞼を閉ざした永村は、リョウの震えた声に全く反応することなくひっそりと呼吸を続けている。次第に焦りが生まれてくる。
「これで合ってるかどうか、答えろよ。もし違うなら、また買ってくるから」
いくら話しかけても黙っている永村。このまま彼が手の届かない場所に行ってしまうのではないかという不安に、リョウは泣きたくなった。瞼が熱くなってきた。目の前が白くぼやけ、永村のこげ茶色の髪が滲む。
書店で出会った老人を思い出す。奇跡を信じるとか聖夜だとか、そういう信憑性のないものになんて、リョウは縋ることができなかった。こんな絶望的な状況で、一体どうやって奇跡を祈れば良いのだろうか。今のリョウはただ、どうしようとしか考えられなかった。どうやったら永村が目を覚ますかということよりも、彼が目を覚まさなかった場合のことを考えていた。
「答えろよ。何で俺なんか庇ってんだよ馬鹿、もっと自分大事にしろよ! お前は俺なんかより、もっともっと必要とされてる人間なのにっ」
彼の両肩を掴んで揺する。押さえきれない涙が、永村のベッドに落ちてしみを作った。永村はリョウのなすがまま、力なく揺られていた。
だが、医者の言葉が脳裏に蘇(よみがえ)る。頭を強く打っていたという永村をあまり揺すっていたら、それこそ脳に影響がでるかもしれない。
「死ぬなよ…… 絶対死ぬな、お前が死んだら俺はどうすれば」
呟いて、永村を放した。そのまま、ぺたんと床に座る。もう手遅れなのだろうか。何をしても目を開けることの無い永村は、ちょっとやそっとの奇跡が起こったぐらいでは戻ってこないような場所へ行ってしまったのだろうか。他でもない、リョウのせいで。
リョウがいたばかりに、永村がこんなことになってしまったのだ。一体どうやって償えば良いのだろう。明日からどうやって生きていこう。学校に行けばいつも隣に永村がいるのが当たり前だったし、忙しいとはいえ電話やメールで頻繁に彼とやりとりしていたリョウだから、永村がいない生活なんて考えたこともなかった。
項垂れて、病室の白い床に涙を落とし続ける。今日の昼間まであんなに元気だったのに、永村は目を開けてくれない。暖房の効いた室内でコートを着るのは暑かったが、脱ぎもせずリョウは泣いた。
今にも、永村が「ねえ」と普通に声をかけてくれそうな気がする。しかし、あんなに声をかけても目覚めてくれなかった永村が、軽々しく話しかけてくるはずもない。
「リョウ?」
幻聴が聞こえる。嗚咽を堪えきれなくなった。こんな風に永村が話しかけてくれるはずがないことを、さっき確かめたばかりだ。永村は生きているが、多分もう目を覚ましてくれないのだ。
「勝手に死んだら呪うからなっ」
嗚咽交じりに喚きながら、床に向かって拳を振り下ろす。何か言うことしかできない自分の非力さに、リョウは苛立っていた。床に当たった拳には次第に痛みが生まれ、指の付け根の骨が赤く腫れあがった。
「困ったなあ、死んでから呪われるの? それじゃ僕、死ねないね」
脳内で永村が笑う。全くいつもどおりの笑いだが、どこか呆れたような色を含んだ笑いだ。永村がどんな顔でこの台詞を吐いているのかまで想像できてしまい、リョウはコートの袖で乱暴に涙をぬぐい続けながら泣く。泣きながら、この涙は本当に涸(か)れるまで流れ続けるかもしれないとぼんやり思う。
しばらく泣き続け、俯いたまま放心する。そういえば今何時だろうと思い、時計を探して顔を上げた。
「……気が済んだ?」
ベッドの上に寝ていたはずの永村は、レンズに傷がついてフレームが曲がった眼鏡をかけてこちらをみていた。一瞬、幻覚だと思った。立ち上がって彼を見下ろしてみると、永村はにこりと笑む。
「永、村?」
「呪わないでね」
茶目っ気たっぷりに微笑みながら、永村は点滴をされていない方の手で前髪をかきわけた。リョウは唖然として、永村を見下ろす。
目を覚ました。普通に声をかけてきた。今までと、どこもかわってはいない。
「リョウ。この本、リョウが買ったの?」
枕元においた本を手にし、ぱらぱらとめくりながら訊ねてくる永村。
夢なんかじゃない。幻覚でもない。永村は、生きているのだ。
「そう、そうなんだ、お前が読みたいって言ってたから、俺」
困惑し、何からどう言葉にして良いのか解らなかった。リョウの拙い言葉をさえぎるように、永村は
「そっか、ありがとう」
優しく笑った。生きていることが嬉しくて仕方ないとでも言いたげな笑みだった。だが永村はすぐに笑顔を消し、ため息をついた。
「ごめん。リョウにあげるクリスマスプレゼント、何もないんだけど」
そんなことか。リョウは泣き笑いになりながら、コートのポケットに手を入れる。
「お前が生きてるだけで十分だ、よかった」
言いながら、一粒のキャンディを永村に渡す。リョウの体温のせいか暖房のせいかは解らないが、キャンディは溶け気味だった。それでも永村は、点滴だらけの痛々しい手でキャンディを受け取ってくれる。
リョウは泣き腫らした目がなんとかなるまで、ここで永村と話でもしていようかと思った。
「これ、どうしたの?」
溶けてセロファンに張り付いたキャンディを引き剥がしながら、訊ねてくる永村。
リョウは微笑んで、自分もキャンディのセロファンを剥がした。
「サンタから貰った」
答えると、永村は満足そうに笑った。永村の満足そうな笑みに満足しつつ、リョウはキャンディを口に放り込む。溶けかけたキャンディは、爽やかなマスカット味だった。
窓の外を見れば、白く美しい雪がちらついていた。見晴らしの良い病室からは、遠くの夜景が綺麗に見える。
恋人と過ごすイヴも良いが、リョウは今こうして親友と一緒にいられるイヴに幸せを感じていた。
もしもこの空の向こう側に神様というものがいるのだとしたら、とりあえず感謝しておきたい。
神なんて信じないが。奇跡なんて起こりえないが。それでもあのサンタの言うとおり、今年はイヴに奇跡が起こったのかもしれないと、リョウはぼんやりと思う。
十二月二十四日はそろそろ終りを告げようとしていた。永村は疲れていたのか、既にベッドの上で寝息を立てている。リョウは病室のパイプ椅子に腰掛け、壁に凭れかかって目を閉じた。心電計の規則正しい電子音に耳を傾けながら、しだいに意識が遠のいていくのを感じる。
意識を手放す直前、心電計の電子音が鈴の音に変わった気がした。
END.
いつも思うんですけど、私って小説のオチ下手ですよね。
いつもあとがきに「オチが微妙」って書いてる気がします。
すごく季節はずれですが、UPしていないことを思い出して。
永村君みたいなのクラスにいたら嬉しい(切実
もう眼鏡が出ている時点でこの話も水島の趣味の暴走の末路(笑
リョウと永村は今、同じ高校でそれぞれ部活頑張ってる感じです。夏休みだから二人でどっか行ったりとかしてるのかも。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
07/08/06/
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