この空間なら、僕に似つかわしいと思った。
洗練された都会の街も、長閑な田舎も僕には似合わない。
誰も人がいない、誰にも必要とされない場所が、僕に一番似合う場所。
捨てられた場所。人が住むべきではない場所。
そういうところが、僕の居場所なのだ。
廃墟
山奥で、人が誰も来ない場所。そんな場所に僕はきていた。
ここは美容室か何かだったのだろうか。割れた鏡が朽ちた床の上に散らばっていて、鉄の骨格がむき出しになった椅子が無残に錆びていた。ガラス張りだったはずの場所には何もなく、ガラスを支えていたであろう柱にはツタが巻きついている。
朽ちた木製の床を踏み抜きそうになり、僕は注意を払いながらそっと奥のほうへ向かう。誰かが生活している痕跡は無い。
上を見上げれば、鉄筋と枯れ枝が見えた。屋根は朽ちてなくなったらしく、青空がとても芸術的な感じに枯れ枝と鉄筋の間から覗いていた。その場に腰を下ろすと、脆い床が危うい音を立てた。
誰も来ないところに来たかった。僕は逃げたかった。
全てのものから解放されたくて、僕はここに来た。
けれど僕は、また間違った方向に進もうとしているのかもしれない。
ならばいっそのこと、止まってしまえ。
高一のとき、僕はある事件を起こして人間世界で生きることをやめた。それ以来僕は、廃墟を探してはそこに泊まるという生活を繰り返している。今は十八歳。よく二年間もそうやって生きることが出来たと思う。
僕は高校に入って初めて出逢った彼女を、カッターで切り刻んで怪我を負わせてしまったのだった。
きっかけは世間的に見ればごく些細なことで、けれど当時の僕にとっては凄く凄く重いことだった。けれど僕も、一本のカッターナイフさえなければ真っ当に暮らしていたはずだった。
彼女が浮気したから、二度と浮気なんて出来ないようにって。
そんな理由で僕は、その綺麗な白い肌を何度も切りつけた。抵抗しても押さえつけて、腕とか脚とか致命傷になりにくそうなところを切りつけた。
何度も何度も切ったけれど、やがて冷静になったときに彼女が怯えて泣くのを見た。僕はようやく自分のしたことに気づいて、カッターを放り捨ててすぐさま逃げた。
当然警察に見つかった。即座に退学が決定した。親には哀しい顔をされて、警察の冷酷な目に見据えられて、彼女は顔すらみせてくれなくて、僕はその時人間社会から孤立した。
少年院に、なんて話が出ていた頃に、僕は逃げた。僕は怖かった。更生のためなんて生易しい綺麗事を抜かして、警察たちはきっと一生僕を蔑み続けると思ったから。
やってから後悔したって遅い。解っているのに、僕はそのことを今でも悔やんでいる。人間と一緒にいれば彼女の怯えた顔や捕らえられた時の恐怖感を思い出してしまって、僕は幾度となく狂いそうになった。
だから誰もいない場所を探している。僕は人間社会にいるべき人間ではないから。彼女に対してしてやれることといったら、二度とその目の前に姿を現さないということだけだと思う。
座り込むついでにその場に置いた荷物を、腕で退ける。そして、砂埃と朽ちた材木の欠片が散らばる床に仰向けになってみた。
こうして寝転がって、そのうち僕が腐乱死体で発見されたらどうなるだろうと考えてみる。まず間違いなく、新聞の見出しに彼女を切り裂いたことがばっちり載るだろう。それで彼女がまた悲しんだりしたら嫌だな。もう彼女に、迷惑かけたくない。
目に映る青空を、小さな鳥が横切っていく。そんな様子を呆然と眺めながら、僕はこれからどうしようかと思案していた。今夜の予報は雨だと、荷物の中に入っているラジオで聞いた。屋根が無いこの廃墟で、雨宿りは無理だろう。
まあ、雨でもいいか。どうせ僕なんて生きていても、どうしようもないのだし。野垂れ死になんていうのも、僕らしいかもしれない。
「もしもーし。死んでるの?」
「死んでます。近寄らないで下さい。そろそろ腐乱死体に成り果てます。僕に近寄るとろくなことがないよ」
目を閉じ、半分うとうとしかけながら言う。
声の主が誰かとか、そういうことは別に気にならなかった。
人間とはかかわりたくないから、早急に去ってもらおう。
だから馬鹿みたいにその人を追い払った。けれど。
「近寄っていい? あたし、あんたと話したい」
その声に目を開けてみると、僕と同年代ぐらいの女の子がいた。
僕は目が悪い上に、彼女を見上げれば逆光になって顔は良く見えない。
けれど、髪はこげ茶のストレートだということが解った。
僕は彼女と話したくなんてなかったから、すぐにまた目を閉じた。
この人の声は、何となく僕が切り裂いたあの子に似ている。
だから僕は、この人と話すのが嫌だった。
「だめ。僕は独りがいい」
「だめ。あたしはあんたと話すの」
何この強情な人。
話すのが面倒くさいと思いながらも、追い払うのも面倒になってきて僕は黙り込む。
「あたしは家出人。バイト先で彼氏に振られて、自棄起こして家出してきたんだ」
へえ。失恋ね。もう思い出させないで。
僕が何も反応しなかったのを軽蔑ととったのか、彼女は自嘲気味に続けた。
「馬鹿みたいって思うでしょ? けど、失恋って結構イタいから」
「僕も痛い恋したよ。凄い痛い恋。文字通り痛かった」
何言ってるんだ僕は。
二年もマトモに人と話さなかったからって、見ず知らずの素性もしれない女の子に身の上話をしだすなんて。
彼女は熱心に聴いてくれた。僕が弱音吐いてるのも、黙って聴いてくれた。
「……で、僕はここにいる。死にたいぐらい辛いけど、一応生きてる」
しかも全部語っちゃった。僕、何やってるんだろう。
彼女が警察を呼ばないことを祈るよ。
「そっか。辛いなら死んじゃえば?」
「そうだね。死ねば楽だよ」
彼女の意外な一言に、僕は頷いた。
うん、死んでも良いって思う。
僕が生きていることに意味はなくて、むしろ僕が生きているだけでまた誰かを傷つけてしまう気がするから。
「じゃあなおさら。死ねば? 死にたいなら死になよ、それで救われると本当に思ってるなら」
彼女の嘲るような調子に、僕はそっと顔を上げる。
嘲るような口調の割りに、彼女の声は柔らかくて優しい。
彼女は僕の隣に座ったから、僕は目を閉じた。
この子の顔は、何となく知りたくない。
これでもし顔まであの子と一緒だったら、僕はすぐにでも彼女を突き飛ばして逃げるだろう。
「死ぬのってただの逃げだよ。あんた、自分が償いきれない罪を犯したって自分で言ったじゃん。それ自覚してるなら、逃げずに向き合えばいいのに」
言いながら僕の髪をそっと撫でる彼女。
僕はため息をついた。何だって、こんな山奥の誰もいないところで変な女と出会っているんだ僕は。
相手になんてしなければ良かった。
「馬鹿言うなよ。これからずっと白い目で見られて、仲間からも相手にされなくて、いつも狂人って言うレッテル貼られて、彼女からは怯えられて、近所の人から噂されるようになって…… そんな生活耐えられない」
拳を握り締めて低く呟くと、彼女はうんうんと相槌をうってくれる。
けれど。
「弱い人」
小さな声で、彼女は呟いた。
僕は言い返せなかった。
ちょっと優しい声で、彼女は話を続けた。頭をなでる手も止まっていない。
「けど、人間弱いのが当たり前なんだよね。あたしは、あんたを応援してあげたい」
「あつかましい」
「そう思うだろうけど。でも、あんたに傷つけられた人だってあんたに救われることがあるのかもしれないよ?」
「ないな」
「言い切れないよ。この不安定な世界の上に、未来が決まってるものなんて何も無い」
彼女は優しい声で笑った。
名前も知らないその子は、やっぱり僕が切りつけたあの子に似ていた。
不安定な世界。
あの子はその言葉を好んで口にした。
廃墟から見る青空はどこまでも澄んでいて、まるで僕の気持ちをそっくりそのまま反転しているかのように見えた。
「彼女はきっと、まだあんたを愛してると思う。浮気されたのはあんたなんでしょ? だったら彼女、浮気したこと凄い後悔してるんじゃないかな。あんたを思いつめさせちゃって、こんなになるまで傷つけて。勿論彼女も傷ついただろうけど、あんたのこんな姿見たらきっと泣くよ」
目を開ける。
こげ茶の髪に縁取られた顔は、目鼻立ちがすっきりしていて綺麗だった。
人懐こそうな目。
桃色の唇。
僕が見た彼女は、かつて愛した遙と瓜二つだった。
「お前何者?」
「だから、家出人」
「嘘だ。お前、遙なんじゃないのかよ」
彼女はぴたりと身体の動きを止めて、それから小さな声で笑った。
「……ばれちゃった。イメチェンしたつもりなんだけどなあ」
何で。
僕は一瞬、この朽ちた床が抜けて地下深くに突き落とされたかのように感じた。
遙がここにいる。
永遠に許されなくて当然のことをした僕は、遙にどんな顔をしていいか解らなかった。
ただ、どうしようとしか考えられなかった。
逃げたい。
遙から逃げたい。
「何が目的だよ。何でこんなところに」
じっと見つめあい、ようやくその言葉が出た。
「啓司、やっと会えた」
は?
会えたって、会うつもりだったのかこの女は。
どうして僕なんかに会いたいんだよ。
何度も何度も傷つけて、挙句の果てに逃げて、こんなところで死に損なってる僕を、どうして求めるんだよ。
「あたしね、啓司をずっと探してた」
「何故」
「まだ愛してるから」
愛してるなんて、言わないで。
僕は酷いことをした。絶対許されないことをした。
きっと遙は自分の腕や胸元に残る傷を見せ付けて、僕に痛みを与えるためにここにきたんだ。絶対そうだ。
愛してるなんて言って僕を油断させて、そして傷つけようとしているんだ。
僕には解る。遙は絶対に、僕を愛してなんていない。
「何で僕なんか、愛してるって言えるんだよ。僕を切り刻んで、何事もなかったかのようにここからいなくなれよ。そうして貰った方が、俺だって気が晴れる」
「啓司は、あたしのこともう好きじゃないの?」
何でそんなこと訊くんだよ。
好きだよまだ。当然だろ。
こんなに愛してるのに、浮気したなんて許せなかったから。
だから僕は遙を切ったんだ。遙は永遠に、僕だけの恋人でいて欲しかったから。
醜い独占欲が、結果として遙に傷をつけた。
それをいくら悔やんだところで、遙は二度と戻ってこないのだと思っていた。
けれど、何だこれは?
何で遙がここにいて、僕をまだ愛しているなんていうんだ?
僕はきっと、また遙を傷つける。
それを解っていて、遙はこんなことをいうんだろうか?
「啓司のために、何もかも全部捨ててここにいるんだよ」
「そんなこといわれても、僕には信じられない」
何が啓司のためだ。
僕は君のために何一つできやしないのに。
傷つけることしかできない僕は、自分の馬鹿さと醜さに嫌気が指して人間を捨てた。
もう僕は、人として生きるのをやめたんだ。
なのに一番遠ざかりたかった人間が、いま一番近くにいるのは一体どういうことなんだろう。
僕はゆっくり立ち上がった。
遙が上目遣いに僕を見上げる。
僕は遙をじっと見下ろしてから、無言で荷物を掴んでその場から逃げ出そうとした。
遙がついてくる。僕は足を速めた。
目指すのは、崖。
僕はそこから落ちて、命を終わらせるつもりでいる。
こんな奇行に走るのも、遙のせい……
じゃない、遙に刃物を向けた過去の僕のせい。
過去の僕も現在の僕も未来の僕も、同じ僕なのだから。
だから、過去にこんなことをしてしまった僕はきっと同じことを繰り返すんだ。
僕は二度と、遙と一緒にいられない。
遙は僕を望んでいないし、僕も遙と一緒にいることを望んではいけないんだ。
「啓司、啓司ってば」
「愛してるなら理由を述べて。君を切ったから? 二度と消えない傷を残したから? それとも?」
「理由なんてないよ、けど啓司がいなくなってからあたし、本当に辛くて」
「復讐したくてたまらなかったんだね? そう」
崖のすぐ傍に来た。
僕は荷物を崖下に捨てた。
黒のバッグに入った着替えやらラジオやらは、はるか下の方に落ちていって見えなくなった。
崖を踏み外せば、下に広がる森へ落ちる。
そうすれば僕は、この圧し掛かってくるような罪悪感から解き放たれるんだ。
遙も僕を恨んで苦しまなくてすむように、なるのかもしれない。
僕がしてしまったことは消えない。
たとえ僕自身が消えたとしても、罪は永遠に遙の身体に残り続ける。
それでも僕がのうのうと生きているより、彼女の目の前で消えてしまったほうがよほど良いような気がしてならない。
「もし君が僕を愛しているなら、ここから僕を突き落として見せて」
愛してくれているなら、僕のしたいようにさせて。
それができないなら、やっぱり君は僕を殺したいんだ。
そんなことを考えながら、今までに見せたことのない最上級の微笑で遙を見つめる。
遙は凍りついたように固まって、僕を凝視している。
ほら。やっぱり。
君は僕を愛してなんていない。
「啓司、だめだよ…… だめだよ、一緒に生きよう? 生きてればいいことあるよっ」
「綺麗事いわないで、遙。僕はずっと、怯えながら暮らしてきたんだ」
風に吹かれると、伸ばしっぱなしの髪が揺れた。
警察の影に怯え、人そのものに怯え、僕は暮らしてきた。
誰もすまない棄てられた廃墟に住んで、一人で孤独に暮らしてきた。
今更、生きることに意味はない。
僕は眼下に広がる森を眺めて、うっとりと呟く。
「やっと、かえれるんだね」
思えば僕は、遙から逃げたかったのに遙に会いたいと思っていた。
馬鹿みたいだ。何て矛盾した考え。
けれど僕は遙が好きで、好きだからこんな風にずっとずっと悩んでいた。
もし遙に何か言い残すとするなら。
僕のことを忘れて平和に暮らしてほしいということだけを、言い置いて死のうか。
「啓司をここから落としたら、あたしが啓司を愛してる証明になるの?」
「僕の自由を尊重してくれてるってことになるからね」
「でも、あたしあなたに生きて欲しい」
「だから、綺麗ごとやめろったら」
反論すると、不意に遙が近寄ってきた。そして、悲しげな微笑を浮かべる。
遙の白く形の良い指先が、僕の肩口に触れた。
遙は相変わらず悲しげな微笑を浮かべていたけれど、僕は無表情を装っていた。
彼女の大きな綺麗な瞳から、とうめいなしずくがぽたりと落ちた。
「……大好きだよ、啓司。何を捨てても、あたしは貴方の傍にいる」
「君は僕を忘れて、真っ当に生きて。そうする権利が、君にはある」
がくん。
思わず、ちいさく「うわ」と叫び声をあげてしまった。
大地という支えを失うと、人間はこんなにも早く落下する。
僕は、彼女によって崖下に突き落とされた。
もうちょっと口論が続くのかと思ったら、終焉は意外にもあっけなくおとずれた。
まさか本当に突き落としてもらえるなんて思ってなかった。
そして僕を突き落とした張本人である彼女は、落下する僕にしがみついて一緒に落ちようとしている。
どうして僕を愛しているなんていってくれるのか、最後までわからなかったけれど。
彼女は、僕と一緒に死のうと思ってくれる位には僕のことを愛してくれてるんだとやっと気づいた。
「大好きだよ、啓司。何を捨てても、あたしは貴方の傍にいる」
最後に言われた言葉と、一面に広がる緑の森。
胸に感じるのは、懐かしい体温。
僕が求めていた、たったひとつのもの。
それが、最後の最後にやっと戻ってくるなんて。
こんな終りも、間抜けな僕らしい気がしてきた。
僕の人生と、彼女の人生。
まったく違うものが、この日同じ場所で消えた。
今まで全く違う思想をしていた二人は、最後の瞬間、全く同じことを考えただろう。
もうちょっと長く生きれば、二人で幸せになれたのかな、なんて。
今更何を言っても変えられないし、何かが変わるのなら変化はもっと前に起きていたはずだ。
僕らは何の変化も予感も感じないまま廃墟で出会い、そこから新しい旅に出て、無に帰ったんだ。
帰る場所のなかった僕らは、人が人として生きていくうえでの『廃墟』を彷徨ってきた。
けれど、結局はお互いに愛しい人の腕の中に帰ることができた。
これが、僕らのあるべき姿だったんじゃないかな。
僕らはきっと、間違ってないと思う。
ぼんやりした僕の目には青い青いどこまでも澄んだ空が見えて、それきり何も映らなくなった。
激しい痛みと共に意識がすっと消える、あっけない終り。
本当にあっけないのだけれど。それはやはり、とても僕らしい終わり方。
最後に見た景色のなかに、きみがいてくれてよかった。
END
うわわわわ、何このダーク。
ここまで暗いの書いたの初めてですよ。暗さで幻影に勝ってるよ!(ヲイ
しかも、死ネタ初めて?
何でこんな暗い話を思いついたのかよくわかんないですけど、とりあえず書いたんで一応載せます……
ううん、ちょっと疲れてるのかあたし?
07/03/06/
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