shade.
激しい雨音で目が覚めた。午前五時の部屋は、外の街灯の青白い光で仄かに照らされている。ぼんやりと薄明るい部屋に、途切れることのない雨音。今日はいつにも増して目覚めが悪い。
憂鬱な夜明けだが、とりあえず枕もとの眼鏡に手を伸ばし、それをかけながら起き上がった。
ベッドの上に立て膝で座り、膝を抱えてみる。湿り気味のひんやりした空気が肌を撫でる感覚が、落ち込み始めた気分を少しだけ落ち着けてくれた。
このところ、よく眠れない日が続いている。最近は毎朝、とんでもない時間に起きてから再び眠ることを繰り返しているのだ。今日はこれでも遅い目覚めだが、だからといって快眠できたわけでもない。
一人きりの部屋には、激しい雨音だけが響く。誰もいない空間は居心地よくもあり、虚しくもあった。
一人だからといって虚しく思う必要はどこにもない。けれども、気づくと自分が一人でいることを憂鬱に思っているときがある。それがまさに、こんな朝だ。
無意識に自分の髪を掴みながら、小さく嘆息する。
今日は休日だから、早起きする必要はない。やることはないし、あったとしても何もやる気がないから、このまま一日膝を抱えて過ごそうか。
僕はどうして、ここに存在しているのだろう。本当は誰かの手違いで間違ってここにいるような、そんな気がする。
仕事仲間が嫌だとか、そういう訳ではない。むしろ、だからこそこんな考えをしてしまうのかもしれないのだが。
そうだ、外に出ようか。
こんな激しい雨の日に望んで外出するような人はあまりいない。だから、パジャマのまま玄関に向かった。特に意味はないけれど、雨に打たれていたい気分だ。そして雨と一緒に、このもやもやした感情も流れてしまえば尚更良いと思う。
髪をくしゃくしゃいじりながら、裸足のまま玄関のドアを開けた。外は酷い雨だったけれど、それが玄関にまで吹き込んでくる様子はなかった。
安アパートの一室を出て、玄関の鍵を開けっ放しにしたままふらふらと歩みだす。三ヶ月くらい伸ばしっぱなしにしていた髪は、雨に濡れると顔や項に張り付いた。そろそろ切りにいこうかと思いながら、僕は激しい雨を降らす空をゆっくり見上げた。
分厚い雲に覆われた空は、本当に青いのだろうか。この雲が消えても、空は延々と鉛色のままだったりしないだろうか。
眼鏡を伝って目に雨が入ったけれど、特に気にしなかった。冷たい雨は身体の表面から体温をどんどん奪っていったから、だんだん寒くなってきた。こんな馬鹿なことをしている自分が悪い、それは解っているけれど。
もう少しだけ、こうしていたい。身体を伝って流れ落ちる雨の感覚は、結構好きだから。自分の体温でぬるくなる雨水が、不快なくせに心地良いから。
「馬鹿発見ー」
「馬鹿じゃない」
少し低めの、どこか懐かしい声。思わず言い返しながら振り返ると、軽く日に焼けた長身が大きな雨傘を片手に立っていた。もう片方の手には、旅行用のキャリーカート。僕は彼を凝視し、固まった。
見知った顔に、懐かしい笑み。彼はもう少年ではない。すでに青年になっている。
昔はいつも行動を共にしていた彼は、高校の卒業を境にしてお互いに一人暮らしをはじめたのをきっかけに会うことも少なくなっていた。
城山康明、まだ二十三歳。彼より半年以上誕生日が早い僕は、二十四歳。
最後に会ったのはおそらく三年くらい前だろう。成人式以来、直接会ったことはなかったと思う。
「本当、久しぶりだな英樹」
「康明…… 全然変わってない」
こんな会話も、なんだか懐かしい。お互いに連絡先は知っていても、多忙でなかなか連絡をとれなかったのだ。時々電話で話をしたりしたが、それだって正月と僕の誕生日ぐらいであって、最後の会話から既に軽く一ヶ月はたっている。
「お前相変わらず変人だな。何やってんだよ」
「君もね。こんな時間に来て、普通なら僕が起きているはずがないって解るでしょ? 僕は昔から朝が弱いから」
あの頃、高校生の頃。気づけば思い出の中には、いつも康明の姿があった。気づけば康明に関しての知識は膨大な量になっていて、無意識に世話を焼こうとしてしまうことも多くなっていた。
―――ああ、だからそうなんだ。
だから一人の部屋で、僕は虚しさを感じるようになっていたのだ。
やっと気づいた。友達の隣という居場所を知ってしまったから、一人の部屋で誰かの存在を求めてしまう。そういうことなのだろう。
現在に不満がなくても憂鬱になるのは、一番居心地の良かった場所に戻りたいと強く思っているせいだ。一番居心地の良かった、康明や他の友人たちがいたあの頃。僕は、予想以上に思い出にとらわれている。
「お前さ、風邪引きたいのか?」
「解らないよ。ただ、雨に当たりたかっただけ」
「傍から見るとお前怪しいんだけど」
「何とでも言って」
雨に打たれて首筋に張り付いた髪の長さは、高校時代と同じくらい。あの頃は、前髪の一番長い部分が常に頬くらいまであった。それが自分に一番似合う髪形だと信じ込んでいた僕は、髪型を変えようという勇気を持てなかった。だからずっと同じ髪型でいた。
今こうして髪が伸びっぱなしなのは、たぶん無意識に高校生活を懐かしんでいたせいだろう。美容院に行くのが面倒とか、忙しいとか、そういうわけではなくて。
康明と再会したおかげで、過去を懐かしむ気持ちが急に胸を締め付けた。目の前で笑う康明は高校時代よりも更に垢抜けていた。けれどやはり、その人懐こい笑みは昔から全く変わっていない。
「久しぶりだけど、何か英樹とはいつも会ってる気がする」
「最後に会ったのは成人式でしょ」
「そうだけど。英樹は相変わらず痩せすぎで骨だし」
「君は無駄に背が高いだけだよね。もしかして相変わらず馬鹿だったりする?」
康明の容姿には、相変わらずけちのつけようがない。苦し紛れに身長のことを言ったが、それも所詮は苦し紛れだ。
決定的に切り返せなくて軽い苛立ちを覚えるとともに、苦笑も漏れた。
思えばあの頃から、ずっとこうだった。康明は頭が悪く、英樹は運動ができなかったから、お互いにそんなところばかり皮肉ってよく笑っていた。
20センチもあった身長差は、10センチまで縮まった。けれど僕は康明からしてみれば、これでもチビのままだろう。
僕が178センチになっている今、康明の身長は188センチ。顔も体型も申し分ない康明は、街を歩いていたりすると良い意味でかなり目立つ。
「とりあえずさ、部屋入ろ」
康明は、傘を片手に持ったまま僕の背中を押した。冷えきった背中に添えられた手は温かで、しっかりと僕を支えてくれている。
玄関のドアを開け、濡れた身体のまま部屋に上がりこむ。玄関から居間にかけてが雨水で汚れたが、何となくどうでもよかった。そういうことよりも先に、部屋に戻って康明と話がしたかった。
「服着替えろよ、風邪引いたら誰が世話すんだよ? 俺、明後日にはここ発つから」
というか、明後日までここにいるつもりなのか。まずはそこに反応して、僕は微笑した。
「風邪っていう言い訳で、仕事休みたいくらいだよ」
「でもしないのがお前だろ」
「君には全部、見抜かれてるね」
居心地の良い、康明の隣。長年なじんできた、親友という唯一の存在。
ここにいれば、自分が何のために生きているのかとか、そんな考えを下らないと思うことが出来る。
壊れそうな時、狂ってしまいそうな時、いつも隣でそっと軌道を修正してくれたのは康明だった。そしてこれからも、康明は僕にとってのそんな存在であり続けるのだろう。
康明を居間に残して、濡れたパジャマを洗濯機に放り込む。シャツにジーンズという軽装に身を包むと、冷たかった肌が少しずつ暖かさを取り戻し始めた。今頃になって、らしくないことをしたと感じた。
宮川英樹は絶対に馬鹿らしいことなんてしない。意味のない行動はしない。そんなイメージが周りの人間に定着しているし、自分自身もそんなイメージを突き通していたから。今のこんな馬鹿みたいな、意味の解らない行動なんて僕にはふさわしくなかったはずだ。
「僕、馬鹿だったね」
言いながら、居間のソファに座っていた康明の肩を後ろからぽんと叩く。康明は振り向きざまに笑みを浮かべ、僕が座れるようにとソファの隅にずれた。
「いいんじゃねえの? たまには馬鹿みたいになってみるってのも」
そういう康明は、荷物を開けて早速泊まり込む準備を始めている。半ば呆れ気味に見てやれば、康明は荷物の中からタオルを出して渡してくれる。
自宅の中でタオルを借りるってどうなんだろうと思いつつ、髪にタオルを当てる。
「ありがと」
「どーいたしまして」
ソファに座りながら、僕は小さく溜め息をつく。
「しけた顔してんなよ」
薄暗い部屋のソファに座る、大人の男ふたり。なかなか変な構図だと思う。
電気をつけにいくのも面倒だったし、なんとなく今は薄暗い部屋にいたかった。
「時々、僕って何なんだろうって思うんだ」
呟いてみると、康明は小さく笑う。
「お前は宮川英樹だよ」
当たり前のことを当たり前に、脳天気に言ってのける康明。彼もそれなりに悩みをもっていたりするのだけど、それを楽天的に片付けて前向きに生活していくのが常だから凄い。
僕は宮川英樹だ。けれど、宮川英樹って一体何なんだろう。
「自分が一番楽なスタイルでいることが、自分らしくあることだろ? 自分見失うことも時々はあるけど、暗くなったって何も変わらないじゃん」
康明は前向きに、いつもこうやって僕の背中を押してくれる。どうしたらいいのか分からなくなったり、進むべき道を見失ったりしてしまった時には、いつも康明が僕に道を示してくれた。
また康明に助けられた。僕は康明を全然助けてやれないのに。
「康明、ごめん」
「は? 何が?」
僕が何に対して謝っているかちゃんと気付いているくせに、康明はとぼけたふりをする。そんな康明の優しさに感謝しつつ、僕は微笑した。
久しぶりに、気持ちが晴れた気がする。きっと今夜は、久々にゆっくり眠れるだろう。
窓の外では長く激しい雨がやみ、雨上がりの空から降る光の軌跡が地上を照らし始めていた。
ひとりきりで虚しかった部屋は今、僕にとっての安息の場所。バカでお人好しで身勝手な、けれど憎めない親友がここにいるから。
別に、自分が何なのかわからなくてもいいじゃないか。存在意義にとらわれなくてもいいじゃないか。また自分を見失っても、いいじゃないか。僕には、失くした自分を見つける手助けをしてくれる人がいるのだから。
着替えをしたら、雨上がりの街に出てみよう。何年も会っていなかった、その空白を埋めるならカフェで話すのが一番だ。
意味ありげに笑う康明と目を合わせ、僕も笑う。そして、服を着替えて外に出た。
今度はちゃんと、玄関に鍵をかけて。車のキーも持って。
懐かしい思い出を辿る休日は、まだはじまったばかりだ。
END.
未来の話を描いてみました。二人はこれからきっと、カフェ・ロジェッタへ行くんだと思います。
英樹の軽い五月病と、雨と、康明の相変わらずな能天気さを書きたかった作品です。
長らくUPするのを忘れていましたが、これは五月に書いた話です。しかも、全文携帯で書くという暴挙に出ました(笑
Shade…… 意味は影。ですが、それをShare(共有)することによって、影は消えるんです。
康明と英樹は、多分そんな関係。
07/05/06/(07/07/16/UP.)
もどる