短くなった蝋燭から長い蝋燭へと火を移し、燭台へ置いた。足元にじゃれ付く猫を高価な革靴のつま先で追いやり、館の主はテーブルにつく。
「ご苦労、ワトソン」
「どうかな? これで少しは明るくなったろう」
「不便なものだ、燭台に代わる明かりはないのかね」
ワトソン邸はここらでは一番の豪邸だ。この四階の広間で静かな夜景を眺めながら、酒などを少々嗜むのが二人の日課である。
贅沢で秘密めいたこの夜会が、ワトソンは好きだった。
「今晩の議題は」
言いながらグラスに鮮やかな緋色をしたワインを注ぐ。とくとくと静かに音を立てながらグラスの七分目辺りまでがワインで満たされる。
「この世界についてだよ」
正面に座るのは正装した男。彼の通り名はロレンツ。本名はワトソンでも知らない。
こうして毎晩彼と話すようになって、幾年経っただろう。それでもワトソンはロレンツの本名を知りたいと思わなかったし、気にならなかった。
「世界、ね。たとえば君は、どんな印象をもっている?」
「いきなりそこから入るとはね。まあ、テーマが大きすぎる。致し方ないとは思うが」
「ふふ。で、どうなんだい」
注いだワインをロレンツに渡す。何もしなければ部屋は少し肌寒いので、暖炉に火を入れてある。暖炉側に座っているロレンツの茶色い髪は、火の明かりに照らされて赤く煌いて見えた。
逆光で見えにくいその目の色は、そうだ、澄んだヘーゼルブラウンであるはずだ。いまこの状況では、まるで琥珀色のウィスキーのようである。
「一時の快楽を求めて一年分の苦労が動く。金の話さ」
「おや、らしくもない。無粋な話だね」
酸味の強いワインを口に含む。独特の香味に気分良くため息をつく。
「無論、堅実であるのが全てではないと思うがね。しかし金がなければ、野垂れ死ぬばかりであるのが現状さ」
「ふむ、君は世界が金で動いているというわけだね」
大仰に片手を振って見せれば、ロレンツは笑みを深めてワインを口に含んだ。
「では君の答えを聞かせてもらおう」
「世界は時で動いているのだろうよ。そして、時を有効に使うために金がある」
「ほう。美談だな」
足元の猫が鳴く。高くなく。誰かを呼ぶように、幾度も。
そんな猫を横目で見やりながら、ワトソンは半分ほど残ったワインをグラスの中で回す。立ち上る高貴な香りに安らぎを感じながら、降り注ぐ青白いほのかな月光に軽い陶酔を覚える。
この静かな夜の中で、自分達は一体何の話をしているのか。
「何事も現実的過ぎてはいけない。時には葡萄酒に月光を浮かべて飲んでみたまえよ」
「成るほど。味に深みが増すな」
静かに笑い合う。二人分の月光を満たしたワイングラスの水面は、妖艶に揺れる。
ロレンツの骨ばった指と、グラスの細い脚が絡む。何となく蔓植物を髣髴とさせるその姿に、しばし見惚れる。
「例えば、君が必要なものを一つだけ残し、後は全て焼かれるとしよう」
ああ、毒々しい言葉だ。ワトソンは思い、ほくそえむ。
透明なグラスに絡むのは、毒々しい赤い花を咲かせた蔓性の薔薇か。時々ひどくトゲのある一言を放ってワトソンの反応を楽しんでいるところは、まさにそうかもしれない。
「君は何を残し、どう生活する?」
光る彼の瞳。揺れるワイングラス。
月光が少しずつ雲に隠れていく。部屋の微細な影が青みのある色調を失い、蝋燭や暖炉から成る暖色の明かりが闇を占める。
「大切なのはこの身体。あとはどうにでもなる」
呟くように答え、グラスの中身を呷る。喉が熱を帯び、胸の中を暖めていくような感覚がある。酒は一気に飲むものではないとワトソンは思う。特にこんな夜には。
ふうん、とロレンツは呟く。自分の答えになんて大した興味をもっていないだろうとその声で解った。
「ああワトソン、君の答えには失望したよ」
冗談めいたその声に反応するように、猫が小さく一声鳴いた。
雲に隠れていた月光が、再び部屋をほのかに照らし出す。
「いやロレンツ、君の問いはそもそも答えを成し得ない」
「成しえない、何故そう言える?」
「全ては失くせないさ、『世界』がある以上はね」
にやりと笑って見せれば、遠くで狼の遠吠えが聞こえた。ロレンツは手の上で何も入っていないグラスを揺すりながら、気だるげに頬杖をついていた。
「さて、次の議題は?」
「引き続き、世界だろうな。『世界』がある以上は」
足元にすり寄る猫に笑いが漏れた。
空のグラスを再び満たし合い、奇妙な夜会は続く。
END.
坂本龍一の「lorenz and watson」という曲を聴いたら書きたくなった次第。
1999年リリースの「BTTB」4曲目に入ってるんで、是非皆さん聞いてみてください。
最初、イメージは猫と真夜中の洋館だったんですよ。
最後の会話からイメージを膨らませていった形です。
色々まとまってないしなんか短いですが、これにて。
08/03/15/
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