蜂蜜色のレクイエム
誰もいない墓地に来ていた。
喪服を着込んで、花束を持って、レンティーノは昼下がりの長閑な時間にここに来ていた。
十字型をした墓石や歌碑のようになっている墓石や、そんな墓ばかりある場所に、シンプルな大理石が置かれただけの墓がぽつんとある。
屈みこんで、石に刻まれた名をそっと指でなぞる。風雨に晒された大理石は少し汚れていて、触れた指先に灰色っぽい埃をつけた。
「父さん……」
もれた呟きは自分で聞いて馬鹿げていると思えるくらいに震えていて、レンティーノは多分心のどこかで未だに父の死を受け入れられていないのだと悟る。
彼は死んだ。
言葉にすればたったこれだけの短い文になってしまうような、けれどもレンティーノにとってはどうやって処理したら良いのか解らないくらいに衝撃的な事実。論理的には理解しているつもりだが、それに感情がついてこない。
父が死んで何年経ったと思っているのだろう。十四歳の五月に父がいきなり自殺し、気づいてみればもうその日からすでに五年と少し経っているのだ。
「何で、勝手にいなくなってしまうのですか」
ここに来るたび、必ずこうして父を責めている気がする。解っている、これはただの八つ当たりだ。
父においていかれて、なす術もなくなって泣いていたあの日を思い出す。そして、それを父のせいにしている自分がまるで子供のように思えて、レンティーノは自己嫌悪に浸る。
レンティーノは独りではない。けれども、父の存在はレンティーノの全てだった。父に喜んでもらおうと、笑っていてもらおうと、レンティーノはそんなことばかり考えていた。レンティーノが仕事を手伝ったり花を持っていってやったりするたびに笑っていた、彼の笑顔が本当は苦痛を訴えていたなんて露ほども知らずに。
父が抱えたものに気づくことができなかった自分を、レンティーノはもう遅いと解っていながらまだ責め続けている。今更どうしようもないんだと、そう開き直ってしまうのが嫌だった。
けれど、自分を責め続けることが父を思っている証拠だと、心のどこかでちらりとでもそう思ってしまうのは、ただの自己満足なのだ。父のためにしてやれることなどもう何も無い。そう、何もないのだ。
「育児放棄も大概にして下さい、父さん。おかげで私はこんな人間に成長してしまいましたよ。貴方の家を継ぐことも、おそらくできません」
聞くもののいない言葉など、吐いて何になるのだろう。
「覚えていますか。いつか一緒に世界一周旅行をすると、貴方は約束してくださったのですよ」
守る人のいない約束など、ただ無力でしかない。
「貴方にとって私は、一体どういうものだったのですか」
答えのない質問など、しても空しいだけ。
「私には、父さんしかいなかったのですよ。何で、勝手にいなくなってしまうのですか」
こんな言葉、本当は言いたくなんてない。言ったところで何がある? そう考えて何もないという結論を出せるぐらいには現実を受け入れられるようになったのに、それでも何度もこう言ってしまう自分が空しくなるからだ。
俯いて喪服の袖をぎゅっと握り締めていると、背後で草を踏みつける足音がした。
「ふーん。それがてめえの思ってることか? 案外子供だな」
振り返れば、相変わらず嫌な笑みを浮かべたマーティンがいる。これが彼の普通の表情なのだとレンティーノは解っているが、今だけはどうしても気分が荒んでいて柔軟に対応できなかった。
「聞いていらしたのですか」
「まあな」
「立ち聞きですか。また趣味の悪いことを」
「てめえのデカイ独り言も、十分趣味悪かったがな」
俯いたまま眉根を寄せて、レンティーノはその場に腰を下ろした。父の墓と向かい合う形で、突然現れたマーティンについて少し考える。彼は一体何の用があってここにきたのだろうか。
「よっこらせ、っと」
わざとらしい掛け声と共に、レンティーノの隣にマーティンがあぐらをかいた。
「で、墓に供える花がそれか?」
「いけませんか」
「普通はアウトだな。お前、意外と常識ないな」
右手に持ったままの、大輪の薔薇の花束。左隣に座ったマーティンは、興味あり気にそれを覗き込んでいる。
「良いのですよ、私は宗教を信仰しているわけではないですし。薔薇は父さんが好きだった花ですから。それに」
「それに、何だ?」
「私と父さんのつながりなんて、薔薇の花くらいしかありませんから」
思わず苦笑がもれる。
父と二人で過ごした記憶には、いつでも植物があふれていた。中庭の大樹。屋上の小さなハーブ園。そして、誕生日のたびに自宅から摘んでくる薔薇の花。
細かいことを言えばレンティーノと父の間にはいくつかつながりはあったが、どれも研究所に必要なものばかりだから持ってくるわけにもいかない。
「ふうん。お前なりに考えてるわけか」
「私は何の考えもなしに、暇つぶしとしてこういう場所にくるような男ではありませんよ」
若干の皮肉を込めて言う。マーティンはどうせ、墓場を囲う樹木の木陰で涼みに来たのだろう。膝を抱えながら、レンティーノは深く思考の渦に沈む。
「何だ、俺が暇つぶしをしてるって言いてえのか」
「おや、違うのですか?」
「違うね」
きっぱりと言い切られて、レンティーノは自分の膝を眺めるのをやめて隣のマーティンに目をやる。マーティンは安物のライターでタバコに火をつけて、大きく煙を吸い込んでいるところだった。父はタバコは吸わない人だったが、いつだったか祖父がヘビースモーカーだったと聞いたことをちらりと思い出した。
父との思い出を引っ張り出してしまい、膝の上に顎を乗せて深い思考に沈みかける。するとマーティンは、タバコの煙を大きなため息として吐き出しながら小さく笑った。
「どうしたのですか」
「いや」
タバコを右手の人差し指と中指の間に挟み、左手で安物のライターを弄りながらマーティンは空を見上げた。何がしたいのだろう、この男は。
マーティンはちらりとこちらを見て、いつもどおりの嫌味加減ではあるけれど、微笑を浮かべて見せた。
「どっかの誰かさんに頼まれてよ。休みの日は大体墓場で悲しみにくれてる、大層カワイソーな悲劇のヒロインを見てきてやれってな」
反応しようにも、声が出なかった。ここに来ていることは、誰にも言っていないのに。ここで誰かに会ったのなんて、今ここにいるマーティンが初めてだというのに。
どういうわけかレンティーノの居場所を知っていて、なおかつ派遣社員をよこすような人物なんて。彼ぐらいしか思いつかない。
「どっかの、誰かさんですか」
小さくかすれた声で呟いて、苦笑する。
どっかの誰かさん。それが誰か、レンティーノはちゃんと解っているつもりだ。マーティンもそれを承知しているのか、煙と一緒に細く長い息を吐く。
「レンティーノ。てめえ、ミンイェンの気持ち考えたことあるか? あいつは今でも、ミンが死んだのは自分のせいだと思い込んでやがるんだ。火葬を指示したのはあいつだからな」
「そんな」
「本当ならあいつがここにきて、てめえに何度も謝ったんだろうな」
マーティンが吐き捨てるように言うことは、いちいちリアルで苦しくなる。ミンイェンのことだから、本当に彼が言ったとおりのことをしでかしそうだ。
「ミンイェン……」
いつでも誰かのために生きている、そんな彼が健気だった。その『誰か』の中に、自分も入っているということをレンティーノは時々疑問に思ってしまうこともあるのだが。
自分のような人間が、と幾度となく思う。
父の死にもまともに向き合えずに、五年間もすごしてきた自分。ミンイェンに心配をかけていることなど全く気づきもせずに、一人で項垂れている自分。どうしようもないと足掻いて、自分を卑下することで少し救われた気になっている愚かしい自分。こんな自分が、誰かに必要としてもらえているなんて少し可笑しな話だ。
「はっ。なあにが『ミンイェン……』だ。しおらしい声出してんじゃねえよ、男のくせしやがって」
軽く笑いながらレンティーノの声を真似し、マーティンは父の墓を見つめた。
「失くしちまったモノはもう戻ってこねえよ。解ってんだろ。まあ、取り戻そうと足掻くことを無駄だとは言わないがな」
にやりといつもの笑みを浮かべて、マーティンは座ったときと同じように掛け声つきで立ち上がった。安物のライターをジーンズのポケットに入れながら、マーティンはレンティーノに背を向けた。
「早く戻ってきな、レンティーノ。てめえがいなくて困るのは、何もあいつだけじゃないしな」
ゆっくり歩きながら言う彼の背中に、何というべきか少し迷って、
「ええ」
ありがとうございます。そんな意味を込めて、頷いた。
マーティンはその意図に気づいたのかどうか解らないが、タバコをくわえたまま少しだけ軽い足取りで歩いていった。彼の後姿を見送って、レンティーノも腰を上げた。そして、墓の前にひざまずく姿勢になった。
「それでは、私はもう行きますね」
冷たい大理石に声をかけ、レンティーノは微笑する。右手に持ったままだった花束を胸に抱えると、優雅な薔薇の香りがふわりと漂う。
父の白衣に染み付いていたこの匂いを嗅ぐたびに、安心感と切なさが同時に胸に広がっていく。もう父はいないんだと、最近は薔薇の匂いを嗅ぐたびに思う。
思考を解いて、静かに墓石の前に薔薇の花束を置いた。そして、すっと立ち上がって墓石を見下ろす。
「父さん、お誕生日おめでとうございます」
大輪の薔薇は全部で四十一輪。父がこの世に生を受けてから今までの年数を、そのまま花束にした。
父が死んでから五年間、レンティーノは八月十日は必ずここにきて一日を過ごしていた。薔薇を父が死んだ年齢の三十六輪にしないのは、今日は彼の誕生日をささやかに祝いたかったからだ。
死んだ人に声など届くはずがなくても、まして花が見えるはずがなくても、何でも科学的に考えることが第一の研究員という職業についていても、それでも少しは信じてみたい。
父がどこか遠くにでもすぐ近くにでも、とにかくどこかにいて、自分を見守っていてくれることを。
「おい」
墓石に背を向けた途端、目の前に見慣れた青髪がいて驚く。
「あれ、まだ居たのですか」
「いたのですか、じゃねえ」
中途半端に目をそらして、マーティンは短くなったタバコを携帯灰皿に擦り付けて消す。
その仕草が照れ隠しなのだろうと、長年の付き合いでレンティーノはわかっている。さっきの『困るのは、何もあいつだけじゃない』という言葉だって、俺も困るというニュアンスをたっぷり含んでいたことだし。
それに、マーティンはどうでもいい用事で動いたりはしない。ミンイェンの願いをちゃんと聞き入れてここに来てくれたということは、マーティンの中でレンティーノはちゃんと仲間として位置づいているということなのだ。
「心配なさらなくても、私はちゃんとミンイェンのところに帰りますよ」
「てめえは放っておいたらミンの墓掘り返して一緒に入るとかいいかねないからな」
心配しているということをあえて否定せず、マーティンは冗談なのか本気なのか区別がつきにくいことを言い出す。レンティーノは微笑で応じ、墓が密集している場所を指差した。怪訝そうな顔をするマーティンに、仕返しとばかりに言ってやる。
「そこに穴掘ってあげますから、貴方が埋まって下さい」
「てめえに土葬されるなんざ、死んでも御免だね」
「貴方が不謹慎なことを言い出したからです」
何だかこれが、いつものリズムだ。父は居なくなってしまったけれど、今まで父がいた部分の歯車になって自分を動かしてくれる仲間がレンティーノにはいる。
少し前を歩くマーティンに、心の中でありがとうと呟く。父の死を受け入れて自然に受け止めることはまだできないかもしれないが、それでもミンイェンを悲しませるような真似だけはしたくない。ミンイェンだけでなく、マーティンやハビたちも。
「マーティン」
「何だ」
「……いいえ、何でもありません」
今日は卑猥なジョークを飛ばさないマーティン。多分彼は彼なりに真剣に何かを考えていて、それを悟らせないためにこんな風にいつもどおりを装うのだろう。
それを考慮したうえで、レンティーノは言いかけた言葉を切った。
真っ白いビルまで、あと少し。
ミンイェンの居る場所まで、あと少し。
「綺麗な空ですね」
「ん? ……ああ」
八月の空は抜けるように青く、都会のごみのような景色をも綺麗な色に染めてしまいそうな気がした。父は、こんな夏の空が好きだとよく言っていた。
失くしたものはもう戻ってこない。確かに、マーティンの言うとおりだ。
だからといって失くしたものを忘れることは出来ないが、受け止めることはきっとできるようになる。
けれど今は、どうやって父の死を受け止めるかを考えるよりも、あの白いビルの天辺にいる無邪気な親友のことだけを考えていよう。
レンティーノは誰にともなく微笑して、研究所に一歩足を踏み入れた。
END.
久しぶりの短編更新です。
今回はシリアス+友情をスタンスに書いてみました。いつもどおり、締め方が微妙ですね。
下校途中に見つけた薔薇の店を見て、レンティーノを連想して書いたのですが…… 八月に喪服は、いくらレンティーノでも暑いでしょうね(笑
「蜂蜜色と午後の研究室」のあとがきでも言ってたんですが、これは勢いで書いちゃいました。蜂蜜シリーズは、レンティとマーティンの妙な空気がちょっと心地良いんです(笑
背景の鷹目石じゃないほうの赤い石は、確か八月の誕生石であるガーネットです。
07/07/03/
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