嘘で塗り固めた日常。
嘘で隠した本性。
嘘で手に入る表面上の平穏。
とにかく俺の周りは、嘘で溢れている。
真実なんてきっとひとつもない。
真実を見つけようと光に向かって手を伸ばすのをやめたのは、一体何時のことだったか。
途方もなく昔のような気もするし、昨日だった気もする。
だがそんなことすら、今は如何でも良い。
ただ息をして、ただ生きること。それだけが今の自分にできる最高のこと。
だから、それ以上のことを俺に望まないでくれ。
もう何も、俺に望んでくれなくていい。
嘘 ―――それはただ一つの、自己防衛手段。
二十歳の春。
人生を続けていくことに疲れきって、生命活動を停止させようと目論んだ。
だから、一所懸命にその方法を模索した。
他の誰でもない自分の生命活動をとめてしまおうと、マーティンはそう思ったのだった。
銃で頭を撃ち抜くと、銃声ですぐに居場所がばれる。
生憎、サイレンサーつきの銃は持っていない。
首吊りは死体が汚いから嫌。
ならば割腹か。だが、ナイフ類は使いたくない。
ナイフを見ると、イノセント=エクルストンを思い出す。
だから生きたくなってしまうのだ。
ひたすら追いかけて殺そうとするだけの空しい人生を、また繰り返そうとしてしまう。
イノセント=エクルストンを殺したら、マーティンに生きる意味はなくなると思う。
だからマーティンは、そうなるのが少しだけ怖かった。
さて、他に良い方法は?
ここ最近で死んだ人間の、死因を思い出してみる。
リストカットによる大量出血。
飛び降り。
入水。
一酸化炭素中毒。
そして、服薬。
……そうだ、薬が一番楽で一番綺麗な死に方かもしれない。
とは言ったものの、薬品保管庫は厳重にロックされていて、一般の人間は容易に立ち入れない。
明焔に『睡眠薬が切れた』と言えば、保管庫をあけてくれるだろう。
だが、それだけはやりたくない。
彼を嘘で騙すのは嫌だった。
それでなくとも、明焔は睡眠薬で大切な人を亡くしている。
彼に新たなトラウマを植えつけるのは、いささか酷な気がする。
仕方なく、ハビのもとへいく。保管庫の管理者は、ハビなのだ。
「ハビ」
「どうしたの」
声をかければ、大柄な割りに威圧感のない男が振り返る。
白いだけの廊下。そこに交じりこんだ、二つの異分子が自分たち。
「睡眠薬が欲しい。保管庫をあけな」
いつもの調子で話しかけると、ハビは怪訝そうにマーティンを見た。
マーティンはぎくりとし、数回瞬きをする。
どうもこの男は苦手だ。
別に彼のことは嫌いではない。
それに、マーティンの数少ない友人の中の一人なのだが。
何故かこの男には、マーティンを構成する一要素である嘘が通用しないのだ。
その部分だけは、どうしても苦手だった。
「どうして? 君は睡眠薬なんて、いつも服用していなかったはずだよ」
「ここ最近悪夢ばかりで眠れやしねえ。だから寄こしな、睡眠薬」
そういうと、ハビは黙ってマーティンの目を見つめてくる。
その目に見つめられると、どんな嘘でも必ずばれるとマーティンは思う。
実際、今回もばれた。
「……マーティン、自殺する気?」
一瞬たじろいでしまってから、すぐに後悔した。
態度に出してしまったら、無言で認めているようなものだ。
ハビはマーティンを、冷たい目で見下ろした。
少しだけ、その目が怖かった。
彼にそんな目を向けられたことなんて、初めてだったから。
「死ぬな、マーティン」
厳しい口調でそういわれて、マーティンは思わず反発してしまう。
「お前に何が解る」
「他人のことを解ろうとする努力すらしていない君に言われたくないよ」
その言葉に、愕然とする。
確かにマーティンには、自分以外のことなんてどうでも良いと思っている部分がたくさんある。
ハビには、全部見抜かれている。
何を言っても、どんな嘘をついても、通用しない。
ただ一つの自己防衛手段も、彼には通用しないのだ。
「マーティン、君はまだ生きなきゃ駄目だよ」
「はっ。俺には安息の場所なんかありゃしねえんだ、クソッ。じゃあな」
マーティンはくるりと踵を返し、銃を取りに行くために自室に戻ろうとした。
しかしハビに襟首をつかまれて立ち止まる。
襟元が首に食い込んで苦しいので、無視して歩き続けるわけにもいかなかった。
「何だ」
呟くと、ハビは厳しい声で言った。
彼に背を向けているので表情は見えないが、おそらくまたあの冷たい目をしているのだろう。
「銃でも取りに行こうとしていたね? 解るよ、君の考えることくらい」
そう言われ、マーティンはため息をついた。
どうして、彼には何もかも見通されているのだろう。
自分はそんなに感情的に振舞っているつもりはない。
なのに彼には、いつでも何もかも見透かされる。
自分は、そんなに単純な男だったのだろうか? まさか。
明焔じゃああるまいし。
「何故てめえは、俺を死なせてくれない? 疲れたんだ。とめるな」
自棄になって喚くと、ハビに右の手首をぎゅっとつかまれた。
驚いて彼を見上げると、彼はいつもどおりの柔らかな笑みでマーティンを見下ろしていた。
「疲れたなら、休めばいいんだよ」
「どうやって」
せっかく諭してくれるハビにも、冷たい言葉を投げつけてしまうマーティン。
休む方法がわからないから、永久に休めるようにと死に方を模索していた。
どうやって小休止すれば良いのか解らなかったから、そうしたのだ。
ハビは穏やかに笑いながら、マーティンの少し先を歩く。
マーティンがついてこないと解ると、肩越しに軽く振り返ってこちらを見る。
「まあ、カフェ・ロジェッタの紅茶でも飲んだら? おいで」
「はあ? ふざけ……」
「おいで」
強い眼差し。逆らうことは赦されないような、絶対的な力を持った視線。
マーティンは大きく息をつき、ハビの少し後を追いかけた。
彼は本当にカフェ・ロジェッタにいくつもりらしく、研究所を出て空港の方角に向かって歩き始めた。
確かに空路を使えば数時間でいける距離とはいえ、行き先は島である。
明焔に連絡したのかと問うが、返事は曖昧だ。おそらく連絡はしていないのだろう。
短時間で帰るつもりなのだろうか。
いや、明焔のことだから『僕も行きたい』などと言い出しかねない。
そうなったら面倒だからなのだろう。
「おや、二人とも。おでかけですか?」
優雅な声。
顔を上げると、商店街の方角からレンティーノが歩いてきていた。
手には本が何冊か抱えられていたから、おそらくレンティーノは本を買いにいったのだろう。
レンティーノが商店街に行くと、必ずといって良いほど女性に絡まれている姿を目撃する。
前に一度、女に姿を変えて買い物につきあってやったこともある。
それで、レンティーノの『彼女』の役を演じてやった。
しかしそこで全く不本意ながらナンパされ、思わず相手を銃で殴りつけてしまってからもうレンティーノはマーティンを買い物に誘わなくなった。
「レンティーノも来る?」
恐らく彼は忙しいだろうから、絶対に来ない。
マーティンにもそう予測できたのだから、ハビは最初から断られるつもりでこう言ったのだろう。
「いいえ、私は研究所にいくつか仕事を残していますから。お気をつけて」
ハビはレンティーノに手を振った。
マーティンはそんなハビの後を追おうとするが、レンティーノに腕をつかまれる。
細身とはいえ、自分より背の高いレンティーノ。彼は華奢なのだが、男だからそれなりに力はある。
「マーティン、どうかしたのですか」
自分を真摯に見つめる目。
その目は『私がついていますから、貴方は生きて下さい』とでも言いたげで、マーティンは一瞬たじろいでしまう。
どうして、どうして皆で口をそろえて『生きろ』というのだろう。
「いや、なんでもねえ。早く明焔のところに行きな」
呟いて、ハビの後を追う。
追いながら何だか無性に苛立ってきて、マーティンは路上に唾を吐き捨てた。
どいつもこいつも身勝手だ。
誰も、マーティンがこんなに悩んで苦しんでいることを知らない。きっと、ハビでさえマーティンを子供みたいに思っているのだろう。
マーティンの悩みは一過性で、カフェに連れて行けば機嫌もよくなるだろうと。
ハビはそう思っているのかもしれない。腹立たしい。
こんなことを思うこと自体が子供じみていることに気づき、マーティンは再び自己嫌悪の渦に巻き込まれた。
「マーティン、清掃活動の人が困るでしょ」
「俺の知ったことか」
ぞんざいに投げつけた言葉も、ハビにはいつも微笑で受け止められる。
それがどうしようもなく嫌だったし、自分の無力さを強く感じて情けなかった。
かといって、ハビが本気で怒ると対処に困る。
撃つわけにもいかないし、マーティンはハビに素手で勝てないのだ。
身体の大きさも、力も違いすぎる。この男が本気で人を殴ると、相手が死ぬ事だってあるのだ。
こんなにも穏やかで、優しく紳士的なハビは、偽りの姿なのかもしれない。
本来は裏人格がハビの姿で、表だと思われている方が偽物なのかもしれない。最近、そう思うようになった。
「飛行機酔いはする?」
「いや」
「そう。じゃあいいね」
空港までは結構近い。
研究所は都会の真ん中にあるため、交通面では物凄く便利なのだ。
ハビとマーティンは、もう空港の入り口にいた。航空券はハビが既に持っていて、五分と待たずに飛行機に乗ることが出来た。
飛行機の座席に腰掛けて、マーティンはずっと不機嫌さをアピールしていた。
ハビは毎日のようにフライトをしているから、客室乗務員に知り合いが多いようだ。彼は、金髪の美女と親しそうに話していた。
一瞬だけあの女をナンパして連れ去ったらどうなるかと考えたが、ハビは別段何の反応もしないだろうからやめておいた。
「お飲み物はいかがですか」
「いらねえ」
愛想良く話しかけてきた美女にそっけない返事を返し、マーティンは膝に顔を押し当ててため息をついた。
全く、どうしてこんな男と二人仲良く飛行機の旅なんてしなければならないのだろう。
憂鬱なフライトは早く終わり、マーティンはハビに連れられて空港から喫茶店に向かった。
今日は定休日だから、ハビは喫茶店の裏に回って自宅の鍵を開けてきた。
ハビの家は、喫茶店と繋がっているのだ。前に一度だけ、あげてもらったことがある。
「はい、上がって」
笑顔の彼に軽く反発の視線を向け、無言で家に上がりこむ。
ハビはすぐに喫茶店に通してくれたから、マーティンは適当にカウンター席に座ってタバコに火をつけた。
「店でタバコ吸わないでって、前に言わなかった?」
あきれたような声に顔を上げれば、ハビは普段着に白衣を羽織った姿のままカウンターに立っている。
カウンターに立つハビの姿といえば、カフェ・ロジェッタの制服として使われているシャツにベストというスタイルだ。
普段着に白衣というあまりに見慣れた姿のハビがカウンターに立っていると、ハビの定位置がそこであることには変わりはないのに、なぜか違和感を覚えた。
「嫌なら連れてくるな」
舌打ちまじりに言うと、ハビは肩をすくめてため息をついた。
そして、戸棚から白い珈琲カップをふたつ出してくる。
「で、マーティン。何が不満なの?」
「全部」
見ればハビは、サイフォン式コーヒーというやつを作るらしい。
マーティンは珈琲に詳しくないから、彼のなれた手つきをじっと眺めていた。
珈琲なら、インスタント珈琲の粉末の上から熱湯をかければ良いと思う。
それでも、ハビはそうやって作ることを絶対にしない。
じっと見ていると、ハビが急に手を止めた。
顔を上げると、真摯な目つきでハビがこちらを見ていた。
「何が改善されれば良い?」
「お節介な奴らがいなくなれば、楽になる」
「そしたら、君は死ぬでしょ」
「俺はもう、疲れたんだ」
「どうして疲れたの」
「もういい、訊くな。記憶から消したい」
もう何もかも、面倒くさい。
生きていることは辛いし、ハビのところにいるのも辛いし、かといって誰か他に人間がいるところも嫌だ。
ひとりになりたい。
ひとりになったら、イノセント=エクルストンのことが頭を占める。
どうしようもない苛立ちを感じて、早く殺したくなって、また同じ事をくりかえす。
この酷い悪循環を、一体どうすればいいのだろう。
「具体的には?」
「イノセント=エクルストン」
つい本音が出てしまったところで、ハビの質問ぜめは終わった。
ハビは黙って、いつもどおり穏やかな表情で珈琲を見ていた。
マーティンは頭をかき、タバコをライターのケースに擦り付けて消した。
「あいつを殺すのが怖い」
ぽつりと呟くと、ハビはマーティンの手から火の消えたタバコを取った。そしてそれを、ゴミ箱に捨てている。
「どうして?」
訊ねてくるハビに、これ以上隠し事をする気がしなくなった。
また問い詰められて、吐くのがオチだ。
だったら、抵抗せずに言ってしまった方がすぐに話が終わる。
早く一人になりたい。
けれど、ひとりになりたくない。
どうしてこんな矛盾を抱えているのだろう。
考えるのが疲れる。
休みたい。何も考えずにすむ時間が欲しい。
ハビならそれを、作ってくれるのだろうか?
「あいつを殺したら、俺に生きる意味がなくなる」
「何言ってるの、マーティン。気づいてないだけで、君の生きる意味はたくさんある」
「ふざけんな」
ハビがマーティンのために安息の時間を作るのは無理そうだ。
やはり彼は解っていない。
マーティンがどうして苦しんでいるのか、それを解っていない。
そう思った矢先、ハビの厳しい声が飛んだ。
「明焔のこと、考えてる? 少なくとも彼は、君がいないとふさぎ込むよ。まして自殺したなんてことになったら、ミンのときを思い出すんじゃないかな。そして、彼の人生も狂うよ。既に大分狂ってるけど、救いようがなくなると思う」
生きる意味。
それを解っていないのは、自分の方だったのかもしれない。
マーティンは唐突にそう思った。
「彼の救いになってるのは、間違いなく君だよ」
追い討ちをかけるように、ハビの説得力抜群の言葉が頭に響いた。
けれど、マーティンも言い返す。
「俺がいなくても、てめえがいれば」
大らかで優しい、時々凶悪になるところをのぞけば言うことなしのこの男。
彼がいれば、マーティンなんて要らないと思う。
明焔の兄役は、二人も要らない。
ハビだけで十分なのだ。
「君の代わりなんてどこにもいないよ」
「なんで」
鋭く切り返せば、ハビは楽しそうに笑う。笑いながら、珈琲をカップに入れて渡してくれた。
ブラック、無糖。
マーティンの口にあうように、濃さがちゃんと調整されている。
流石は喫茶店のマスターだ。
湯気を立てる珈琲を数口飲んで、マーティンはハビの言葉を待った。
ハビは太い指で珈琲カップのふちをなぞりながら、マーティンをちらりと見る。
「僕やレンティーノは、君みたいに卑猥な言葉で明焔をからかったりしないから」
「そこかよ」
「冗談だよ」
楽しげに珈琲を飲んでいるハビに、ちらりと横目を送ってやる。
すると、ハビは微笑を消して真面目な顔になり、珈琲カップをことりと置いた。
「どうして殺したいのに、イノセントのために生きているの? そこからして間違ってる。だったら、明焔を笑顔で暮らさせるために生きている方がよほど有意義だと思う」
彼に自分の生き方そのものを否定されたことはなかった。
軽く拍子抜けしてしまったが、マーティンは頷いた。
「まあ、な」
そうかもしれない。
明焔を笑顔で暮らさせることに労力を使ったほうが、絶対いいに決まっている。
ハビの意見はいつでも悔しいぐらい正しい。
だからきっと、イノセント討伐のために生きるのは間違いなのだ。
「すっきりした?」
「少しは」
少し、なんてこたえたが、本当はもっとすっきりした気がする。
こめかみを銃で撃ち抜きたいとか、大量服薬をしたいとか、そういう思想はどこかへ消えた。
明焔の、あの無邪気な笑み。
あれを守り続けてやることのほうが、イノセントを殺すより大事なことだ。
「自殺しようとしたこと、明焔には言うなよ」
席を立ちながら言うと、ハビは苦笑した。
「言えないよ、そんなこと」
確かに、そうか。
マーティンはいつもどおりの笑みをハビに送る。
一応、感謝の表現のつもりだ。
何でもお見通しのハビだから、きっとわかってくれているだろう。
飲み残した珈琲をあおり、喫茶店を出る。
向かう先は、研究所。
いつまでも小さい弟みたいな、若社長がいる場所。
あいつが笑って暮らせる環境を作ってやるのが、兄貴の仕事だろ?
そんなことは、口には出せないけれど。
帰ったら明焔をどうからかおうかと思案しつつ、マーティンは飛行機に乗った。
END
いつもシメが微妙です。
けど、久々にマーティン。
マーティンの過去、今二〇〇七年だから、三年前ってとこですかね。
ハビとマーティンは、こんな風に繋がってます。
ハビは大きいお兄ちゃん、マーティンは真ん中、明焔は末っ子?
ハビはパパでもいいや(笑
ここまで読んでくださってありがとうございました。
07/02/13/
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