the T A X I .
雨の降りしきる真夜中のことだった。
リヴェリナ郊外のひっそりと静まり返った路地で、一人の男が手を上げていた。
ずぶ濡れの男を、嫌な顔ひとつせずに載せてタクシーは走る。シートがぐっしょりと濡れた。
「大丈夫ですか。タオルがトランクに入ってますが、使いますか」
寡黙な男だ。話しかけてみても、反応が芳しくない。
「いや、いい」
「暖房をつけましょうか」
「いや、いい。それより兄さん」
男は運転手の肩をそっと叩く。冷たい手だ。
「何でしょう」
制服が濡れるが、最後の客なのだからと思って特に気に留めなかった。
軽く振り返ると、首筋にひやりとしたものが当たる。拳銃だ。
「……何の真似でしょう」
「金をよこしな。このままここでタクシーを止めろ」
言うとおりにブレーキを踏んだ。青信号なのに停車し、運転手はぎこちなく鍵のついたダッシュボードをあける。
「そこに置け」
運転席と助手席の間のテーブルを指示され、そこに今日の売り上げを全て置く。男が低く笑う声が耳元で聞こえた。
「降りろ」
「えっ」
「降りないと撃つ」
「……はい」
荷物を持とうとしたら、引き金を引く音がした。ちらりと振り返ると、額に銃を押し当てられる。
「降りろ」
銃を押し当てられたまま運転席のドアを開き、運転手は大きくため息をつく。
「……そのまま雨の中放置して、風邪でも引かせてやればよかったと後悔していますよ!」
そう言い捨てると、運転手は降りしきる雨の中に飛び出した。背後で銃声がしたが頬を掠っただけで、銃声の直後に乗りなれたタクシーは猛スピードで走り去っていった。
運転手は項垂れ、とぼとぼと歩きながら携帯を取り出した。
「あ。警察ですか。たった今、タクシー強盗にあいました」
この電話が、リヴェリナ連続タクシー強盗の第一件目の電話だった。犯人はなかなか捕まらず、強盗はリヴェリナの外へまで広がりつつあった。
そんな中、男のほうは今夜もずぶ濡れになってタクシーを待っていた。
目当てのタクシーはどんどん商売を自粛するようになっていたが、タクシーの営業所につながるこの路地ならば、数台くらいならタクシーが通ることを男は知っていた。
「今日も競馬でスッちまったしな」
ギャンブルにかける金を稼ぐのが億劫になり、タクシー強盗でその資金を稼ぐようになって早一ヶ月。
首尾は上々だ。盗品のタクシーは闇ルートで海外へ売りつけているので、かなりの金が入る。だんだんギャンブルの資金を稼ぐというより、タクシー強盗自体が楽しくなってきていた。
「おっ、いいカモがきたぞ」
雨の中、一台のタクシーが向こうからやってくる。男は道に乗り出して、手を上げてタクシーを止めた。
近頃では素通りされることもしばしばだったが、タクシーは素直に止まった。
「どこまで行きますか」
運転手はまだ若いようだ。灰色のヤマアラシのような髪と、深いバリトンボイスが印象的だ。髪型は奇抜で、部位によって長さがランダムに違う。
「港まで」
「ウェスト・ポートとイースト・ポートのどちらへ?」
「東だ」
「かしこまりました」
タクシーは音も無く走り出す。雨音がやけに耳についた。
心なしか気温が低い気がする。最初に強盗したタクシーの運転手に言われた『風邪でも引かせてやればよかった』というセリフが何故かフラッシュバックする。
「お客さん、こんな時間に港へ?」
「船がある。そこで寝泊りしている」
「漁師の方ですか?」
「ああ」
「でも、リヴェリナの漁協にはいませんよね」
質問の多い運転手だ。
「あんた、漁協の関係者か」
「そういうわけじゃないですけどねえ」
運転手は楽しそうに笑った。まだ正体がかぎつけられているわけではないだろうが、今日は大人しく降りて帰ったほうがいいかもしれない。
「あんたはこの辺に住んでるのか」
「ええ。港の方にね」
もしかしたら厄介な相手かもしれない。
さりげなく探りを入れられているような、そんな気がさっきからする。
運転手は声を上げて笑った。灰色の髪がさらさら揺れた。
「住んでるっていうか、住みついてるって言った方が正しいかもしれませんね」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味ですよ。あはは」
何故か冷たい笑い声に聞こえて背筋がぞくりとした。
「お客さん、こんな話を知っていますか」
言葉はゆっくりとつむがれた。バックミラーに写る運転手は帽子を被っているので、目元が陰になって解らない。
その口許はゆるやかに弧を描いており、非常に楽しげであった。
男はごくりと唾を飲み込む。
「雨の夜に、ひとりの男がずぶ濡れになって歩いていたそうです」
真っ先に想像したのは自分の姿だった。男は運転手をじっと注視した。
「男は会社をくびにされて、妻や子供に会うのが気まずくて家にも帰れずに困っていました」
ギャンブルのやりすぎで家に帰れなくなった自分とまさに境遇が重なる。
運転手の話は続いた。
「どこにもいくあてがなくなった男は、たまたま近くを通りかかったタクシーを拾いました。タクシーの運転手は、ずぶ濡れの男を嫌がることもなく乗せました。真夜中のことです」
「それで、どうしたんだ」
「タクシーに乗ったものの、金が無かった男は、運転手を殺してしまいました」
「殺した?」
ああ、なんだ。それは自分のことではない。
「ええ、殺してしまいました」
「酷い話だな」
「助けてくれ、お願いだ、家に帰らせてくれ、と懇願する運転手を殴りつけ、鞄に入っていたカッターナイフで首筋を掻っ切ってしまったという話です」
妙にリアリティがあって怖い。男は身震いし、ぐしょぬれの両腕を摩る。
「翌日、男はまたタクシーを拾いました。今度は強盗などするつもりはなく、新しい会社の面接から帰る途中に、歩くのが億劫になって拾ったそうです」
「ほう」
「運転手は何も言わずにタクシーを発進させました。男は何気なく自分のとなりの座席を見て、ぞっとしました」
運転手が話を止めた。雨の音だけが不気味に響く。信号機が誰もいない道路で赤く光っていた。タクシーは止まる。
「ぐっしょり、濡れているんですよ。ちょうど昨日、自分が座った座席です」
……薄気味が悪い。
なんとなく自分の隣の席のほうを見たくなくなった。
「すぐに降りようとしました。ですが、運転手は止まってくれません」
信号が青になり、タクシーは発進した。男は黙って運転手の話を聞いていた。
「助けてくれ、おねがいだ、家に帰らせてくれ」
運転手は懇願する男の口真似をする。雨の音がいっそう激しくなった。
「すると、運転手はようやく口をひらきました」
男はバックミラー越しに運転手の顔を見つめる。ちらりと顔を上げ、運転手はにぃ、と笑う。
「昨日のわたしと、同じことを言いましたね」
ぞっとするような低い声。刺すような視線。運転手の目の色が青いという事を男は今知った。
固まっていると、運転手はふわりと邪気の無い微笑みを浮かべた。
「男はそのまま気を失ってしまいました。翌日になってずぶ濡れで路地に倒れているところを発見されましたが、意味のあることはひとつも喋れない状態だったそうです」
明るく響くバリトンボイスに少しほっとした。先ほどのままのテンションで喋り続けられたら、それこそ先ほどの話の男のように『降ろしてくれ』と懇願したくなるような勢いだった。
「そりゃつまり、殺された運転手が幽霊となって、犯人に報復したってことか」
「ええ。以来、雨の夜になると殺された運転手が現れて、生前と同じようにお客を乗せるそうですよ。丁寧に目的地まで載せてくれて、お金を払おうとすると忽然と消えてしまうそうです」
「不気味だな」
「よほどタクシーが好きなんですね。お客さんが喜ぶことを考え続けながら、幽霊タクシーを操業しているんでしょう」
感心するような呟きに、男は胃を締め付けられたように感じた。
もしかしたら、自分が撃ったあの運転手は死んでしまったのではないだろうか?
第一回目のタクシー強盗をした際に、『風邪でも引かせればよかった』と言った彼は、ずぶ濡れの男をとにかく気遣った。
シチュエーションは違うが、都市伝説なんてそんなものだ。自分が殺した男が、幽霊タクシーを操業しているのかもしれない。
鳥肌が立った。寒くてたまらない。
「大丈夫ですか。タオルがトランクに入ってますが、使いますか」
不自然に明るい声で運転手はそう問いかけてきた。
「いや、いい」
「暖房をつけましょうか」
いや、いい。そう言いかけたところで戦慄する。
どこか聞き覚えのある会話だ。
「……いや、いい」
恐る恐るバックミラーを見上げる。叫びそうになった。
そこにいたのは、灰色の髪の運転手ではなかった。
頭から血を流し、全身ずぶ濡れになった、第一回目の強盗で自分が撃った運転士がそこにはいた。
虚ろな灰色の目は濁り、左右で違う方向を向いている。
その目がぎょろりとバックミラー越しに男をにらみつけた。
「セリフ、前と違うじゃないですか」
血が凍らされたように感じた。
「あ、ぁあ、あ、っ…… うわぁああぁあああっ!!!!!」
死に物狂いでドアを開け、走行中のタクシーから飛び出した。
男は走って走って逃げ、うすぐらい路地裏を駆け抜けて街の中心へ出た。
こんなに明るいところなら大丈夫だろう。
人はいないが、外灯やビルの電気はまだついている。
「はあ…… はあ、な、何だったんだあれは」
両膝に手をつき、体を前かがみにさせて息を整える。ようやく落ち着いたが、雨で体が冷えきって寒い。
震えながら歩いていると、後ろから車が走ってくる音がした。
よかった、ちゃんと人がいる。そう思って安心したのも束の間、ゆっくりあるく男の隣に音もなく停車したのはさっきのタクシーだった。
「ぎゃあああああああ!!」
ワイパーが行ったり来たりしているフロントガラスの中に、灰色の髪の運転手が乗っている。
悪い夢に違いない。男は走って逃げようとしたが、タクシーはぴったり隣をついてくる。
「お客さん、急にどうしたんです? ねえ」
運転席の窓を開け、運転手は楽しげに笑いながら男を見つめた。
男はもう運転手の方など見ようともせず、両手をめちゃくちゃに振り回して喚く。
「く、来るな!」
「お金払ってもらってないですから」
「金ならいくらだってやる! やるから!」
「東の港はそっちじゃないですよ、お客さん」
「嘘だ! 港に寝泊りしてるなんて嘘だから!」
走り続ける。息が切れてきた。雨で敷石がすべり、男は地べたに転げる。膝を打って悶絶しかけるが、そんなことをしている暇は無い。
立ち上がって走ると、タクシー事業所の前に出た。もう一歩も走りたくないが、ここで止まるなんてもっと嫌だ。
いつのまにかタクシーは隣から消えていた。これなら逃げ切れると思い、男は事業所の前を走り去ろうとした。
「お客さん」
電気が走ったように体が震えた。その直後、事業所の看板に仕込まれた電灯の配線につまずき、転んだ。
かつん、かつん……
革靴で歩道を歩く音がする。立ち上がりたいのに、看板の配線が足に絡まってパニックになり、男はその場で転げまわるだけだ。
足音が止まった。
男は声にならない声で必死に何か言ったが、雨音に消されて吐息の音すら聞こえない。
灰色の髪の運転手が、倒れた男をじっと覗き込んでいた。
恐怖に顔が引きつる。
運転手は世にもつめたい笑みを浮かべ、そっと男に手を差し出した。
「わすれものですよ」
その手に握られていたのは、犯行に使っている拳銃だった。
「ああああああ!!」
運転手の口許がにぃ、と歪む。その口許めがけて真っ赤な血がたらりと垂れる。灰色の髪が真っ黒になって短くなり、青かった瞳は灰色に濁りだす。
男は気を失った。
「……ふう、終わった」
タクシー事業所の前で、ウルフガングはいたずらっぽい笑みを浮かべていた。事業所の主に頼まれて強盗を捕まえることに協力してやったのだが、ちょっとやりすぎただろうか。
「おい、こいつか?」
事業所に声をかけると、若い運転手が出てきた。第一回目の強盗の被害にあった運転手で、頬の傷はもうすっかり治っていた。
「こいつですよ! まったく…… ありがとうございます、ウォル。どうでしたか? こいつ、ちゃんと反省してます?」
強盗相手に『風邪でも引かせてやればよかった』などと言うことはとても勇気があると思うが、内容がちょっと可愛いと思う。
「おそらくもう、このさき一生タクシーは使わないだろうな」
「どんなことしたんですか」
「ん? ナイショだ」
「えー教えて下さいよ!」
笑い合いながら、男の手と足を持って雨に濡れないところに移動させる。事業所のタクシー駐車スペースに連れてきて、適当にその辺に寝かせておく。
「明日警察にいいますね」
「たぶん必要ないと思うぞ、こいつはおそらく自分で出頭すると思う」
「ますます気になりますよ、どんなことしたんだか」
「直接本人に聞いてみたらどうだ? お前の顔見た瞬間、泡吹いて倒れるだろうが」
笑いながら言い、ウルフガングは若い運転手に手を振った。
「いつかお礼しますね!」
「いいよ別に。それじゃ、遅くまでお疲れさん」
「ありがとうございました!」
元気良く見送ってくれる運転手にほほえましい気持ちになりながら、ウルフガングは雨の中を歩いた。
幽霊だから、意図的に濡れようと思わない限り雨が体を突き抜けてしまうが、それはとても便利なことでもあった。
後ろから車が近づいてくる音が聞こえた。かるく振り返ると、古ぼけたタクシーが静かに隣に止まった。
「乗っていきませんか」
若い黒髪の運転手が、窓をあけてウルフガングに声をかけた。人好きのする笑みを浮かべた彼は、先ほどの強盗被害者第一号にそっくりだ。
ウルフガングは笑顔で頷き、後部座席のドアを開けた。
ぐっしょりと湿った座席を見て眉根を寄せる。幽霊だからあまり関係ないが、何となく湿っていない方の席に腰をおろす。
「……町外れの古い小屋まで、乗せていってくれるか」
「かしこまりました。寒いですね、今夜は。雨もひどい」
「ああ、そうだな…… 幽霊とか出そうだ」
まさしく自分が幽霊だったりするが、これは相手に対するジョークである。
「あはは、そうですねえ。本当、幽霊とか出たりして」
相手も軽口で返してくる。幽霊に『幽霊が出た!』などと騒がれたら面白いかもしれないなどと考えながら、ウルフガングは含み笑いする。
「今夜は協力ありがとう」
「タクシー業界の危機とあっちゃ、俺も黙っていられませんよ。タクシー好きですから」
「あっぱれだな、お前にとってこれは天職だったんだろうよ。いやー、みたか? あいつの顔!」
「ありゃ凄かったですよね! チビってそうでしたもん」
「びしょ濡れだから解らなかっただけで、案外そうかもしれんぞ」
「あははは!!」
ビッグなイタズラが成功した気分だ。声を上げて笑い合う。
陽気な幽霊をふたり乗せたタクシーは、まっすぐ港の方へ向かった。
翌日、タクシー事業所で目を覚ました男は、真っ先に警察に駆け込んで犯行をすべて自白し、無事にお縄となった。
しかし、彼が警察署に飛び込んで放った第一声が『助けてください』だった理由については、謎のままだ。
END。
すごいノリとテンションで書き上げてしまった短編。
短編更新ひっさびさなのによく書けたな。
ウォルの幽霊タクシーネタっていうのを授業中に考えついてから、ずっと書きたいと思ってました。
ホラーは書けないんですが、中盤は微妙にホラーです。
ギャグテイストにしたかったんですが、どっちつかずになりました。
それでは、お読みくださってありがとうございました。
09/04/12/
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