夜でもないのに星を見ることが出来る場所。
例え雨でも澄んだ夜空を見ることができる場所。
[ 冷雨やむころ ]
静かに屋根をうつ雨音に、ハビは目を閉じた。
かれこれ二時間、ここにいる。
昼食を終えて、休憩時間に入った時からずっとだ。
同じ部屋にいるレンティーノは、一時間ぐらい前から殆ど言葉を発さなくなっていた。
本に集中してしまったのだろう。
退屈に耐えかねて、小さく呟いてみる。
「生憎の雨だね」
隣で本を読みふけっていた彼は、ゆっくりと顔を上げて本を閉じる。
丸眼鏡のフレームがきらりと光を跳ね返し、レンズ越しに見える瞳が柔らかく細められた。
レンティーノは、本当に綺麗な人だと思う。
「退屈そうな顔をしていますよ。つまらないのですか?」
「ちょっとね」
訊ねられてそう答えると、レンティーノは膝の上においていた本を本棚に仕舞った。
レンティーノは昔から立ち居振る舞いが上品である。
誰に教えられたわけでもないというのに、ソファから立ち上がるというだけの動作でさえも美しく見えるから凄い。
立ち上がった拍子に翻った彼の白衣の裾が、ちらりと視界に焼きついた。
あまり立ち上がらずに一日を過ごしているようなレンティーノだから、白衣にはあまり皺がついていない。
「行きましょう、ハビ?」
レンティーノは戸口にたってそう言い、軽く首をかしげている。
行くってどこに? 訊ねようとしたが、やめた。
行き先は、ついてからのお楽しみだ。
レンティーノが行き先も告げずにハビを連れ出そうとするなんて、珍しいことだ。
だからハビは、あえて行き先を聞かずに彼についていこうと思ったのだった。
「このところ、島とこちらを何度も行き来していますよね。疲れているのがはっきり解りますよ」
歩きながらレンティーノは言い、立ち止まってこちらを振り仰ぐ。
ハビは顔に疲れが出にくいタイプだとよく言われるのだが、レンティーノには隠せないようだ。
苦笑して見せると、レンティーノは再び歩き出した。
「しっかり寝てください。カフェの営業時間も、減らしたらどうですか」
「それはできないよ、レンティーノ。常連さんは来る時間帯が大体決まっているからね」
レンティーノの提案をやんわりと却下し、ハビはポケットに手を入れた。
オーダーメイドの、丈が百五十センチ以上はある白衣だ。これを明焔に着せると面白いことになる。
「ですが、営業中に倒れてしまったら大変ですよ。貴方を病院まで運べるような方はなかなかいらっしゃらないと思います」
冗談交じりに言うレンティーノに、それもそうかと本気で思う。
カフェに来るのは女性客の方が多いし、男性客だって力仕事には向かなさそうな人ばかりだ。
「まあ、疲れるけど。でもこの仕事は楽しいよ。生きがいって言っても過言じゃないぐらい」
自分を必要としてくれる誰かがいる場所。そこが、この研究所と喫茶店の二箇所だ。
どちらにも、かけがえのない人がいる。
どちらでも、かけがえのない人が待っている。
「流石ですね、ハビ」
柔らかに微笑みながら、レンティーノは高価で質の良い革靴で廊下をゆっくりと歩いている。
レンティーノに良く似合う、シックな茶色。
茶色が似合う男性は、なかなかスタイリッシュで良いと思う。
ハビは、茶色より黒が似合うとよく言われた。
やがてハビとレンティーノは、研究所を抜けて外に出た。
外に出ると雨は本降りになっていて、レンティーノは困ったように微笑んだ。
「仕方ないですね。ビニール傘、使いましょう」
差し出されたビニール傘は、研究所のエントランスに置いてあるものだ。
それらは特に誰のものでもなく、自由に使って良いということになっている。
「そうだね」
頷きながら、彼から傘を受け取った。
透明のビニール傘は、明焔やマーティンには丁度いいかもしれないが、ハビたちには少し小さかった。
ひんやりとした、湿った空気が頬や首筋を撫でる。
雨音に混ざって、車のクラクションが遠くで聞こえた。
こんな場所で佇んでいるのも悪くない。そう思うが、レンティーノが歩き出したのでハビは彼を追いかけた。
レンティーノは器用に水溜りをよけながら、何となく楽しそうにしている。
少し先を歩いている彼は、普段なら年齢の差を感じさせないぐらい大人びている。
しかし今の彼を見ていると、なぜか六個も年下であるということを再認識できた。
ちらりと見えた横顔が、無邪気な笑みを浮かべていたからだろうか。
「雨、好きなの?」
「ええ」
肩越しに振り返って微笑するレンティーノは、お出かけに連れて行ってもらう小学生のように見える。
レンティーノにしては珍しい感情表現で、少し驚いた。
「ですが、雨だと星空が見えないですよね」
ハビに比べると小さい、けれど男性らしい手が、蜂蜜色の髪をかきあげる。
セルジがカットしたその髪は、女性も羨むようなつやとしなやかさをもっている。
残念そうにしているレンティーノに、ハビは微笑みかけた。
「そうだね。けど、こんな話を明焔に聞かせたら、明焔はそのうち雨でも星を見るための装置を開発するんじゃないかな」
いつもそうだ。誰かが何か欲しいといえば、明焔はそれを作り出そうと試行錯誤する。
欲しいと思うものを追い求める思想が転じたのか、明焔は発想力に優れているから、発明をたくさんしているのだ。
まあ、どれも研究所の内部でしか使っていないのだが。
それでも明焔の発明品には凄い価値があると思う。
太陽光発電を利用した空気清浄化システムなどは、きっと周囲の会社に講評だ。
窓の無い研究所には、これが必要不可欠だ。
明焔の技術なら、二酸化炭素を分解して酸素と炭素に分けて、炭素からダイヤモンドを作ることも可能だ。
実はハビたちの見えないところで、明焔は経費削減のために頑張っていたりする。
だから、研究所は意外とエコで快適なのだ。
そういえば明焔は、一昨日ぐらいに石英の成分を分析していたりもした。
導線につめる水晶を作るためらしい。全く、よく働く少年だ。
「あるじゃないですか」
「え?」
唐突に言われ、きょとんとしてしまう。
レンティーノは悪戯っぽく笑いながら、ハビを見上げている。
「プラネタリウムをご存知でしょう、ハビ」
気づけばいつのまにか、レンティーノは寂れたドーム状の建物の前で止まっていた。
ドームといっても、そんなに大きいわけではない。
せいぜい研究所のビルぐらいの敷地に、丸い安っぽい天井がついているような感じだ。
都会の煩い町並みから離れた、住宅地のちらほら見える場所。
そこに、それはあった。
「行きましょう?」
そうか、そうだ。
プラネタリウムなら、雨でも雪でも夜ではなくても星を見ることが出来る。
レンティーノは傘をたたみ、錆びた傘立てに入れた。
彼にならい、ハビも傘をたたんで傘立てにしまう。
時刻は午後の三時。研究所では、明焔が今も研究にいそしんでいることだろう。
窓口には、みなりのきっちりとした老人がいた。
髪もひげも根元から真っ白だから、元の髪色が何色だったのかは解らない。
目の色は、深い深いブルー。
吸い込まれそうなその瞳は、何かハビには解らない素敵な何かをずっと見つめているように思える。
ハビはその老人に、どこか神秘的なものを感じた。
穏やかな老人は、しわだらけの顔で微笑する。
そして、今日は客が少ないから無料でいいと言ってくれた。
レンティーノはここの常連らしく、老人ととても親しそうに話している。
「毎日、頑張っていらっしゃいますね」
「趣味みたいなものなんじゃよ」
「では、今日もお世話になります」
「それじゃあ、お入り。始めるよ」
ハビはレンティーノと共に、暗い室内に足を踏み入れた。
足元は間接照明で淡く照らし出されていて、ムーディーな感じがいかにもプラネタリウムらしかった。
室内には、シートが沢山並んでいる。
レンティーノはいくつもある席のなかから、たった一つの席を目指して歩いた。
多分、彼の特等席みたいなものなんだろう。
「初めてここに来たのは、随分前のことです」
席に座った姿勢のまま、レンティーノはハビを見上げる。
ハビはレンティーノの隣の席に座り、天井を見上げてみた。
広い天井は、よどんだ鈍色の空のようだった。
ここに投影される星空は、一体どんな風なのだろう。
「初めてきて、それで気に入ったの? ここ」
「ええ。初めてここに来た時からずっと、私はここに座っています」
「指定席か。なかなか格好良いね」
白衣のポケットに手を入れて、天井を見たまま笑う。
今のところ、観客はハビとレンティーノだけだった。
二人でこの小さなプラネタリウムを貸しきってしまったようで、何だか特別な感じがする。
ここに明焔をつれてきたらどうなるだろう。
セルジはノーチェを誘って来そうだ。
マーティンは、タバコをふかしながら遠い目をしそうだ。
離れていても、いつだって彼らのことが頭に浮かんでくるのが不思議でしかたない。
やはり、それだけいつも彼らに救われているからだろうか。
数分して照明が全て消えた時、ハビは座席の背もたれに頭を預けてリラックスしていた。
照明が落ちると、殺風景だった天井にだんだん星空が浮かび上がってくる。
それを眺めながら、ハビはちいさく欠伸した。
ここのところ、レンティーノの指摘どおり疲れている。
寝不足だという自覚症状はあるが、寝ていられないのが現実なのだ。
それでもカフェは接客業だから、客たちの前ではいつもどおり爽やかなマスターを心がけている。
明焔の前では、特に気を遣って微笑んでいる。
それを、レンティーノには全部気づかれていたみたいだった。
彼が本当に小さい頃から、ハビは研究所にいた。
十年以上もずっと傍にいたから、レンティーノは年は離れているけれど幼馴染だといえる間柄かもしれない。
そんなレンティーノには、よく色々なことを言い当てられた。
他人に心は読ませないように、分厚い壁で心を隠しているハビだが、レンティーノにはそれを透視されているような気がするのだ。
彼は凄い人だと思う。
強くて、脆くて、危なげで、けれど一緒にいて安心できる。
レンティーノは、ハビにとってそんな人だ。
背中の力を抜いて、目を閉じる。
酷使して疲れてしまった体がだんだん無重力に堕ちていくような錯覚を最後に、ハビの意識は途切れてしまう。
「……だから言ったのですよ、ハビ。貴方は疲れていると」
隣で眠る大柄な白衣を見て、レンティーノはため息をつく。
かすかにジャズのBGMが流れるプラネタリウムには、現在冬の星座が浮かんでいる。
ハビはの寝顔は本当に無防備で、六歳も年上だとは思えないぐらい幼げに見えた。
そんなハビを見て、レンティーノはひとりでくすくす笑う。
「私ひとりでは、運べませんね」
ひとり呟きつつ、白衣のポケットに手を滑らせる。
薄型の携帯が手に触れた。世界で最も薄いとされる、外国製の携帯だ。
それを使って、レンティーノはマーティンに電話した。
ぶっきらぼうに電話に出たマーティンに、レンティーノはいつもの調子で話しかけた。
「マーティン、ハビを研究所まで運んであげてください」
「はぁ? どうしたんだ、ハビ」
口調こそ荒いが、ハビのことをちゃんと心配しているマーティン。
孤独なくせに、彼はとても心配性だ。
「眠ってしまっているのですよ」
「チッ、驚かせるな。場所は」
今の舌打ちは照れ隠し。解っている。
ことばを乱暴にしか使えないようなマーティンだから、感情表現も少し荒々しい時がある。
けれど、出会ったときからそんな感じなのだ。
だからもう、マーティンは素でああなのだとレンティーノは納得している。
「町外れのプラネタリウムですが、すぐ来られますか?」
「待ってな」
相手が何も言っていないのに勝手に電話を切るのはマーティンの悪い癖だが、レンティーノは微笑する。
本当に彼は、仲間思いで良い友達だ。
最後にもう一度だけハビの寝顔を見て、レンティーノは星空を見上げた。
人工の星空。
機械が作り上げた、ただの映像。
そんなまがいものでも、とても美しく見える。
所詮それは擬似でしかないのに、レンティーノはプラネタリウムの星がすきなのだ。
いや、擬似だから好きなのかもしれない。
自分も、科学者たちの実験の一環でつくられた人間だから。
同類のくせに皆から愛されている、プラネタリウム。
同類なのに、望まれずに生まれてきたレンティーノ。
同じ人工物なのに、こんなにも違うのは何故なのか。
「レンティーノ。置いてくぞ」
マーティンの声で、となりの座席を見る。
ハビをも凌ぐ長身の男に、姿を変えているマーティン。
彼の背中に、ハビが背負われていた。
何だか、妙に笑える光景だった。
良い年した大人の男が、眠っていることを理由におぶわれているなんて。
レンティーノはくすくす笑いながら、マーティンの隣を歩いた。
マーティンは研究員の車を勝手に使って、ここまで来たようだった。
後部座席に白衣姿の長身を載せて、レンティーノは助手席に乗る。
マーティンは後ろを振り返って、それからレンティーノを見て言った。
「一度屋上まで行く」
「ええ。お願いしますね」
マーティンの暴走運転に揺られ、レンティーノは研究所に戻る。
またこんな雨の日があったら、あの老人に会いにプラネタリウムにいこう。
……。
目覚めた直後、腹部に重みを感じた。
静かな雨音が聞こえるが、空は見えない。窓がないからだ。
起き上がろうとすると、ハビの腹を枕にして小柄な少年が寝ているのが見えた。
「……ミンイェン」
声をかけても起きないミンイェンに、ハビはいくらかあきれた。
何故こんなところで寝るのだろう。
しかし眠ったミンイェンの前髪をかき上げてみれば、彼の目の下にはくっきりとくまができていた。
このところ、寝ていないのだろう。ミンイェンは何かに没頭すると、寝ることを忘れる。
彼を起こさないように、ハビはベッドから降りた。
眠っているミンイェンは、何か探るようにシーツの上を手で撫でた。
何の夢を見ているのだろう。悪夢ではないと良いのだが。
ハビはそっとミンイェンを抱え上げて、ベッドに寝かせた。
ミンイェンは小さく寝言を呟いたが、それきり熟睡してしまう。
彼に布団をかけてやりながら、ハビは苦笑した。
なんだか、幼稚園児の息子でも看ているような気分である。
小さな頑張り屋で、いつも人のことばかり考えているミンイェン。
彼もたまには、自分のために何かすれば良いのに。
彼のわがままだって、結局もとを正していけば誰かのためなのだ。
本当は、いつだってミンイェンは誰かのために頑張っている。
誰かの笑顔のために、自分が苦労して、そこに価値を見出しているのだ。
可愛い少年だと思う。純粋で、ひたむきで。
「おやすみ」
そっと呟いて部屋を出る。
雨が降っているが、屋上に行きたい気分だった。
都会を見下ろすあの屋上で、今夜は『月見』ではなく『雨見』をしたい。
冷たい雨の降りしきる屋上で、ハビは大きく伸びをした。
傘も差さずに、雨に打たれて目を閉じる。
星の見えない空にも、価値はある。
けれども、できれば星をみたい。
人間も同じだ。
疲れきったミンイェンにも価値はあるが、できればいつもどおりの元気なミンイェンを取り戻してやりたい。
天気予報が言っていた。
冷雨やむころ、夜が明ける。
明日は木曜、カフェの営業日。
夜明けと共に、ハビのハードな一日がまた始まる。
けれど今日は、友人の計らいで十分に充電させてもらった。
今充電中の友人は、小さな肩にたくさんの仕事を背負い込んでいる。
彼のためにも、カフェと研究を上手く両立できるようにならなくては。
明日の夜にミンイェンをプラネタリウムに誘おうかと思いながら、ハビはずぶ濡れのまま屋内に戻った。
この長い冷雨の終りは、やがて来る朝のはじまり。
END
長い上に意味がよく解らない内容に……
途中で話の趣旨が変わってる気もしますが、一応完成。
最初はハビをリラックスさせるのが目的だったのに、ハビ余計に疲れることしようとして終わってますよね?(笑
いつもどおり、終わり方が微妙ですが。
今日は二人ではなく、四人登場させてみました。
いつか全員でまともな小説書きたいですね(笑
読んでくださってありがとうございました!
07/02/18/
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