いらっしゃい。久しぶりだね、元気にしてた?
新メニューを作ってみたんだけど、試食してみてくれるかな。
そういえば君は、いつでもその席に座るね。常連さんの中にも、君のように指定席を持っている人が何人かいるんだよ。
そのうちの一人は、今まで一度も指定席を変えたことはないんだ。
そう、必ずカウンターの右端から数えて四番目。そこに、彼は座る。
彼は、僕の最初の常連さんだ。
Welcome to the Cafe Rogette!
彼と出会ったのは、僕が店をついで間もない時。僕がまだマスターという職業に慣れなくて、失敗ばかりしていた頃だ。
二十歳の僕は、父から与えられた店をどう切り盛りしていくかで日々悩んでいた。従業員の何人かと、ちょっとすれ違ったりもしていた。
「新しいマスターは、お前さんかね」
良く晴れた五月の朝、彼は現れた。僕の父がマスターをやっていた時代からの常連だった人で、父がマスターをやめると同時にこなくなってしまった人だ。
ロマンスグレーの髪、スタイリッシュなピンストライプのシャツ。革靴は綺麗に磨かれていて、シャツもズボンもぴんと糊がきいている。
眼鏡はフレームがないタイプのもので、年相応に美形である彼に良く似合っていると僕は思う。
彼は気品にあふれた、けれど遊び心も持ち合わせた紳士だ。
「僕は、先代マスターの息子です」
「ああ、知っているとも」
初老の男性は、カウンターの右端から数えて四番目に座った。
僕はグラスに冷水を入れて彼に差出し、注文をとる。
「さて、お手並み拝見といこうか。珈琲を入れておくれ」
「かしこまりました」
言いながら、コーヒー豆の瓶に手を伸ばす。店の物は父が使っていたときから全く場所を変えていないけれど、全てのものがどこにあるのか僕はちゃんと解っている。
小さい頃から僕は、カフェの環境を知り尽くしていた。長いこと、僕はこの環境に慣れ親しんでいたから。
母が家出してそれきり帰ってこなくなってから、僕は父の手伝いでカフェのウェイターをやったりもした。思えばその頃から、この男性はここに来ていた気がする。
当時の僕は十歳かそこらだったから、やっぱり仕事は手伝うというより邪魔していた。父には怒られてばかりだった。
僕はいつでも完璧な子供でいなくてはならないんだと強く思って、その頃からちょっとずつおかしくなっていったんだと思う。二重人格になったのは、多分この頃から。
酷い日は、丸一日記憶がないこともあった。僕はそんな自分が怖かったけれど、父親にこれ以上迷惑をかけたくなかったから頑張って仕事をこなしていた。
長い間、僕はここでウェイターをやってきた。けれど父はある日、唐突に僕に店を渡してどこかに行った。
もう喫茶店を続けるのに疲れてしまったのかもしれないし、ただ単にどこかに行きたかっただけなのかもしれない。けれど理由を聞こうにも、父は連絡先を全く告げずに消えたのだ。
無責任かつ薄情な父親だと思う。僕が何のために今まで頑張ってきたのか、父はまるで解っていない。母がいなくなって荒れ始めた父親を、何とか宥めて今まで一緒に歩いてきたのは僕だ。それを、まるで荷物か何かのように扱うなんてね。
やりきれない気持ちになったけれど、僕にはもう父親は必要なかった。既に一人で働いていたし、家族なんていなくても殆どのことはやっていけるようになっていたから。
「お前さん、小さい頃から良く働く小僧だったな」
「父が苦労しているのを見ていると、動かずにはいられなくて」
「ふむ。感心な息子だな」
「そうでしょうか。父は僕を置いて、どこかに消えましたよ」
男性に珈琲を渡し、僕は微笑した。ちょっと自嘲の笑みだった。男性は湯気を立てるカップを持ち上げて、唇をつける。
彼の反応はなかった。その代わりに、彼からの言葉があった。
「お前さんになら、安心して任せられると思ったんだろうよ。少なくとも他の誰より、お前さんはマスターを良く知っている」
僕を勇気付けようとしてくれているのだろうか。男性は口角を上げて、珈琲を何口か飲む。
『マスター』を良く知っている人なら、ここにもいるだろう。僕は多分、マスターとしての父をよく知らない。
けれど、家に帰ってからくつろぐ父の姿は誰よりも近くで見ていた。だって、僕は。
「家族ですから」
僕は曖昧な微笑を浮かべる。ここまで作り笑顔を連発したのは初めてかもしれない。
男性は笑みを崩して真顔になり、僕を射るような目で見つめた。僕は何を言われるのかと身構え、男性を見下ろした。
「お前さん、本当に喫茶店で働きたいと思ってるのかね?」
一瞬、答えに詰まる。そういえば、僕はカフェで働く意義をまだ見出していなかったように思う。
僕が答えられずにいると、男性は深くため息をついた。
「この仕事は、本当に好きでなければ勤まらない。お前さんの珈琲の味にもでているよ。深みがない」
僕は絶句し、男性を見下ろした。今の言葉は、僕の胸の奥をぐさりと突いた刃のようだった。
何もいえない僕をちらりと見上げ、彼は席を立つ。
「明日も来るよ。明日は今日より、深いコクをだしておくれ」
にっこりと笑って言うと、男性は去った。
僕はしばらく呆然としていたけれど、俄然燃えてきた。
このままじゃ僕は、父が大切にしてきた店を貶めてしまうだろう。僕はもうマスターと呼ばれる存在なのだから、プロとしての自覚を持たなければ。
ようやくやる気になったのがこの日で、僕はこの日から毎日あの男性に珈琲を飲んでもらった。
半年ほどして、やっと彼を唸らせる珈琲を淹れられるようになった。その頃には、常連さんも増えていた。従業員との仲もよくなっていた。
僕は知らないうちに、成長していたらしかった。
今まで無理に大人になろうと頑張って、無理に笑って、色々抱え込んでいたのが馬鹿みたいに思えた。それを気づかせてくれたのが、彼なんだ。
彼は僕が抱えている悩みを聞いてくれたりもする。
だから、何だろう。ただの常連さんじゃなくて、僕の専属カウンセラーさんみたいな感じにもなっている。
「おはよう、ハビ」
「おはようございます、ジャンメールさん」
毎朝彼は、珈琲を飲みに来てくれるようになった。
僕は僕らしい味わいをちゃんと出せるようになって、マスターとしてはようやく一人前に近づけたところ。これからも彼からたくさん助言を貰って、さらに成長していこうと思う。
彼は僕の最初の常連さん。そして、僕をどんどん成長させてくれる人。
開店直後の閑散としたカフェに、毎日来てくれる師範だ。
まだ一人前ではない僕だから、先代の名に恥じないようにこれからも頑張っていかなくちゃ。
明日は彼にも、新メニューを試食してもらおうかな。
END。
ハビにも癒しは必要です。
ということで、人生の先輩みたいな人がハビにもいるんです。
ジャンメールさんの指定席は、先代マスターと話すときに最も楽な席だったというのが由来(どうでもいい
お読みくださってありがとうございました。
いつまで続くか解らない企画ですが、楽しんでいただければなと思います。
07/03/25/(Martin’s Birthday)
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