Sherry in Wonderland.
昼下がりの日差しは穏やかで、つかのま冷たくて厳しい冬の気候を忘れそうになるほどだった。
いつからそうしていたのかは忘れたが、シェリーは庭に出てカフェテーブルに雑誌を広げて退屈していた。飲みかけのココアはすっかり冷え切って、本来の美味しさを損なっている。
「……グレン、きてくれないかな」
どうでもいいようなことをたくさん話したい。グレンの歌も聴きたい。とにかく、この退屈がグレンによって打破されることは間違いないのだ。電話をかけにいこうかと立ち上がったとき、シェリーは翻る金髪を確かに見た。
「あ!」
見間違いようも無い。あんなに綺麗な錦糸のような長髪は、そうそういるものではないのだから。庭の門を押し開けてみると、目の前を真っ白なスーツを着たグレンが凄い勢いで走り去っていった。
「え、え?」
「遅刻ッ、おいどうすんだよ!」
走りながら金色の懐中時計で時間を見て、グレンは舌打ちしてさらに加速していく。呆然と突っ立っているわけにもいかず、訳が解らないままシェリーはグレンを追いかけて走った。
「待ってグレン、何その格好!」
いつもなら、どんなに急いでいる時でもグレンは自分の姿を必ず見つけて手を振ってくれた。それが、わき目も振らずに彼はどんどん走っていってしまう。
「待ってよっ」
初めて会った日は自分の方がグレンよりはるかに足が速かったのに、今はどうだ。エルフとしての力を失ったシェリーは、もう普通の女の子だ。置いていかれる孤独感が蘇る。このまま行かせてしまったら、グレンはもう戻ってこない気がした。
「グレン!」
走っても走っても埋まらない距離感に、不安がどんどん重く圧し掛かってくる。
息が切れる。足が重い。速度が落ちる。涙が出そうになった。
「間に合え!」
その言葉と同時に、グレンがもっと速度を増していった。白いスーツで全力疾走する彼の背中が、小さくなっていく。
「そんな……」
体ががくりとゆれ、右足が浮く。
つまずいたのかと思うのと同時に浮いた足が戻らない感覚を奇妙に思い、あとは何を考える暇も与えられずに体が重力から解放された。
「や、」
マンホールにでも落ちたのか。いや、こんなところにそんなものはない。
吹き上がる風に目を閉じ、腕で顔を庇う。
咄嗟のことで何か意味のあることを考える余裕がなかった。地面の感覚が戻ってこない。シェリーはぎゅっと目を閉じた。
しかし次の瞬間、シェリーは何とか死なずに地面にたどり着いていた。しかし、急激に地面に叩きつけられたことで肺の中の空気が一気に外に出て、しばらく呼吸がままならなかった。
涙目で息を荒げながら辺りを見回し、シェリーは愕然とした。
ここは、かつてシェリーが過ごしたエルフの集落そのものだったのだから。
アンシェントタウンからエルフの集落に直結する入り口はないはずだった。そんなものは、結界の張られたアンシェントタウンには作れるはずもないと思っていた。
けれど、どうしてだろう。明らかにここはエルフの集落だ。
「……やだ、殺される」
とりあえず人目につかない経路を通って家に帰ってみよう。入り口は一度集落の中に人を通すと、しばらくの間は出現しないのだ。
家への帰り方はよく覚えていた。人目につかない場所を通り、時々藪のなかや塀の間から辺りの様子を見てみれば、エルフが何人か見えた。
シェリーがいたときにはこんな格好をしている人などいなかったが、皆中世の貴族かなにかのような格好をしている。中には農民らしいオーバーオール姿の男や、スカーフを頭にまいた農婦らしき女もちらほらいた。
いてもたってもいられなくなって、シェリーは走った。自分の家に、誰か知らない人が住んでいる可能性なんて考えもしなかった。いばらの垣根をくぐりぬけ、表通りに出てくると自宅に出た。
「よかった、出てきたときのままだ」
ほっとしながら、ドアをあける。目に映る変わらない内装にほっとしながら上がりこみ、リビングに向かった。
「ようこそ」
びくりと体が跳ねた。
「いきなり入ってくるなんて変わったお嬢さんだね」
硬直したまま右の方を見る。気に入って使っていた大き目のテーブルに、豪勢なティーセットが置かれていた。そして、向かい合って椅子に座っている二人の男。
(お、お嬢さん?)
どう反応して良いのかわからなかった。自宅に人がいる。しかも二人いる。なおかつ両方とも男で、さらにその二人の男は自分の知り合いなのだ。絶対にどうかしている。何故彼らがシェリーの自宅を知っているのだろう。
「あの、ここ、あたしのうち…… 今は住んでないけど、譲った覚えないし」
ノエルは首をかしげた。そう、何故かノエルがここにいる。しかも、人の家で優雅にお茶をしているのだ。シェリーの知る彼は、絶対にこんなことはしない人だった。
彼の服装はグレーのスーツに黒いシャツ、銀のネクタイで、スマートでハイセンスだった。先ほど通りでみたエルフ達より、近代的に見えるファッションだ。けれど、眼鏡のセンスがちょっぴり野暮ったい。レンズが大きいからだろうか。
「可笑しいですね、私は生まれた時からここに住んでいるのですよ」
嘘を言うなとシェリーは思う。今シェリーの目の前で不思議そうにしている男は、遠くはなれたエナークの研究所にいるはずのレンティーノなのだ。
白いシャツにサスペンダーつきの黒いズボン、ジャケットは脱いで椅子にかけているという格好。胸ポケットには、色とりどりの待ち針らしきものが留められている。
おかしい。やっぱり、人々の服装が古すぎる。
「まあいいよ。さあお嬢さん、こちらへ。僕らのお茶会へようこそ」
優しく目を細めてシェリーを席に案内するその仕草は、明らかにノエルのものだった。その声もその顔立ちも、間違いなくノエルなのだ。いつもよりいくらかキザになった気はするが、絶対に彼だ。しかし。
「ノエル、なんでここに」
「……自己紹介もしていないのに、どうしてそれを」
訳が解らないといった顔で見られ、シェリーもきっと同じ顔をしていたと思う。硬直したシェリーたちを見て、レンティーノが首をかしげて口を開いた。
「お嬢さん。それは彼の異名なのですよ」
「い、異名?」
これは本名だろう。しかも、ノエルに異名なんてあっただろうか。天才とかがり勉とか骨とか、そういう異名なら時々耳にしたが、本名自体が異名であるなんてそんな可笑しな話はきいたことがない。
「彼の名前はディセンバー。十二月になぞらえて、ノエルと呼ばれることもあるのです」
「縮めてディスって呼んでくれてもいいよ。ノエルがいいなら、それでもいいけど」
どう考えてもノエルはノエルだ。シェリーは彼をノエルと呼び続けることに決めた。ノエルはティーカップに口をつけ、ずれた眼鏡を指で押し上げる。
「お嬢さんはどう呼ばれたいんだい」
「あ、あたしは、シェリー……」
二人とも、確かに『お嬢さん』とか言い出しそうな柄ではあるけれど。やはり、実際に呼ばれてみると変な感じがする。それに、もう知り合いなのに今更自己紹介というのもどうなのだろう。
「シェリー、良い名前だね。メイが育てている花の品種だ」
「メイ?」
「白兎だよ」
もうわけがわからない。
ここにいるノエルは間違いなくノエルだが、どうやらシェリーの知っているノエルではないらしい。頭が混乱してくる。
レンティーノはどうなのだろう。これでオクトーバーなどと名乗られたらどうしようとシェリーは思う。
「えっと、あなたは」
「私は仕立て屋です。名前は、特に決まっていません」
予想外の答えに若干拍子抜けしたが、シェリーは少しほっとした。名前が決まっていないのならば、つけてやればいい。
「レンティーノじゃだめ? あたしの知り合いにそっくりなんだ」
「いい名前ですね。どこか懐かしい気がします」
提案してみると、『仕立て屋』と名乗ったレンティーノはにっこりと微笑する。この表情はレンティーノ以外の何者でもなかったが、やはり彼が『仕立て屋』と名乗ったからには彼は仕立て屋なのだろう。
「さて、それでは始めましょうか。もう始まっていますが」
くすりと笑って、レンティーノはテーブルの中央の皿に手を伸ばした。色とりどりの砂糖菓子が飾りつけられた皿の中央に、クッキーがたくさん積まれている。ノエルがティーカップに紅茶を注ぎ、シェリーに渡してくれた。
「ありがとう」
「砂糖と蜜はそこにあるよ」
「蜜?」
ここでミルクやレモンが出てくるのなら解る。けれど、蜜を入れるなんて聞いたことがなかった。蜂蜜だろうか。糖蜜だろうか。
「花の蜜ですよ。甘くて良い香りがします」
レンティーノに言われるがまま、ティースプーンで掬った蜜を紅茶に垂らしてみる。甘く優しい香りがふわりと広がった。
「わあ……」
「飲んでごらん。心が落ち着くよ」
ノエルの声に頷いて、一口飲んでみる。胸の奥がほわりと温まり、甘い香りが口いっぱいに広がった。紅茶にこんな飲み方があったなんてと、シェリーは意外に思う。
「公爵夫人の邸宅へは行ったかい、仕立て屋。あの家の庭はとても綺麗だよ、鼠たちが手入れしてるから」
「ああ、今日は夫人のパーティーでしたね」
「森で見かけたとき、夫人は新しいワンピースを来ていたよ。君が仕立てたのかい?」
「ええ、上等なフリルつきワンピースです」
また話がこの世界の住人のことになった。これだけ立て続けに知り合いに良く似た登場人物が出てくるのだから、きっとこの公爵夫人のポジションにもシェリーの友達が当てはまっているに違いない。
少しだけ楽しみになる。一体どういう人なのだろう。フリルつきワンピースを着られるくらい若い女の子なのだとしたら、ブリジットは除外だ。
「公爵の方はどうしてるんだろうね」
結婚しているとなると、サラやノエルの妹も除外だろう。だとすると、誰だろう。
「まだ帰らないでしょうね。あの方ときたら、夫人より塩の池で鱒を釣るほうが大切だと考えていますから」
上品な口調ながらも、やや憤慨した態度でレンティーノが言う。ノエルはため息をつき、紅茶をひとくち飲みながらクッキーに手を伸ばす。
「可哀想な美しき夫人。いや、夫人と呼ぶには若すぎるほどなのに」
クライドの母も除外、などと頭の中で考える。フリルのワンピースが似合ってしまうような可愛らしい人だが、彼女にはもう十代後半の息子がいるのだ。
「ねえノエル、公爵夫人っていくつくらいの人?」
思い切って訊ねてみると、ノエルはティーカップの縁に指を添えて少し目を伏せながら、穏やかな声で答えてくれた。
「僕よりひとつ年下。最近彼女とよく二人で会うんだ。このままくっついてしまうのもありだよね」
穏やかなトーンのままの声で、さらりと恐ろしいことを言い出したノエルに固まる。彼は一途だし礼をわきまえているし、第一、道を外れたことなんてしない人だ。それが、人の女に手を出そうとするなんて。
背筋が凍る気がした。
「ちょっと、あり、って」
「おやおや、ディス。人妻を奪い取る気ですか」
常に微笑を絶やさないレンティーノは、こんな場面でも微笑んでいた。この世界では、確実に大事な何かが狂っていると思う。
「放任主義の公爵なんかに負ける気はしないよ。彼女も僕を気に入り始めてるし」
クッキーを食べながら微笑んでいるノエルを見ていると、考えたくない方向に思考が向いていく。ノエルがそこまで熱を上げる相手なんて一人しか思いつかない。
年頃で言えば、あの海賊女もノエルよりひとつ年下ぐらいだろう。けれど、それも考えたくないことだ。
ノエルの想い人はサラしかいないと、そう思いたい。しかし、サラがノエル以外の男と結婚までこぎつけてしまったなんて、それも考えたくない話だ。
「やっぱりシェリーも非道だと思うかい? でも僕は彼女を諦めないよ」
「そんなこと思わないよ。ねえ、その公爵夫人の名前…… サラだったりする?」
レンティーノがくすりと笑った。不思議な人ですね、と彼は呟く。ノエルは紅茶を手にしたまま固まっていたが、レンティーノの呟きと同時に口許だけで微笑みを浮かべる。
「本当に君には驚かされるなあ。略しすぎだけど当たってるよ」
良かったと思い、直後に複雑な心境になる。サラがノエルと夫婦設定ではないなんて、残念を通り越して悲しい。
「彼女はミセス・ビフォアジャン・サラ=フォルブレール」
「ミセス……」
ビフォア・ジャン。直訳すれば『一月の前』で、つまり十二月のことだ。同じ十二月生まれのノエルと被らないようにという配慮だろうか? それはないか。
「え、じゃ公爵は?」
「公爵は滅多に帰ってこないし、名前も忘れた。でも、かなり年のいったおじさんだよ。彼女とは絶対につりあわない。ここだけの話、彼女は家の都合で無理矢理あの男と結婚させられたらしいから」
「それで、略奪……」
しかし、何だかノエルにはそれが合っている気がした。というか、そうであってほしいとシェリーも望んでいた。
あの二人は一緒にいてほしい。
「今夜は君が仕立てたこのスーツを着ていくよ。一番の勝負どころだからね」
「それでは、ネクタイだけ新しいものを作りますよ。雪の模様を刺繍した布がありますから」
「わあ、それは有り難いよ」
ノエルは楽しそうに笑い、カップの紅茶を飲み干す。そして、ジャケットの内側から銀の鎖がついた時計を取り出してちらりと見た。
「さて、僕はそろそろ星に餌をやらないと。夕方頃、雲の種を持ってまた来るよ」
「そのときまでに完成させておきますよ」
早いが、もうティーパーティーはお開きらしい。シェリーは紅茶を飲み干してカップをテーブルに置いた。そして、ふとあることに気づく。
「……雲の種」
星に餌をやるというのは、星という名前をつけられた動物か何かだと思えばやや不自然でも納得できる。けれど、雲の種というのは何なのだろう。
「地面に植えて水をかけると雲が生まれるんだ。あまり大きくなりすぎないうちに摘んで紡績機にかければ、糸ができる。僕のこのスーツは雨雲で出来ていて、ネクタイは雪雲を使ってるんだよ」
「すごい、何それ」
素直にそう思った。
「僕の職業は天気屋だからね。仕立て屋と提携して色んな生地を作るよ。そうだ、星に餌をやるところを見せてあげる」
「本当に? 見たい!」
どんな光景なのだろう。籠に入れて飼っているのだろうか。放し飼いにして、餌をやる時になると集まってくるというのも幻想的だと思う。
レンティーノはにこりと笑い、ティーセットを片付け始める。
「では、ティーパーティーは一旦お開きということで。シェリー、またいらしてくださいね」
レンティーノに見送られ、シェリーはノエルと共に家を出た。
08/10/05/
マッド・ティーパーティー編。
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