Sherry in Wonderland.-3-
ノエルやグレンと違い、アンソニーはちゃんと歩いてくれたのでシェリーは助かった。しかし、歩いたのはほんの数分で、アンソニーは突然止まってシェリーの腕を引っ張る。
「どうしたの?」
「歩くの疲れるから乗ってって!」
森の木につないであった動物には、手綱らしきものがついている。しかし。
「乗って、って……?」
指差されたのは、どう見ても羊だった。白いふわふわした毛並みが暖かそうな、可愛い羊だ。体高はシェリーの腰にも届かないような、小さな羊だ。
「ほら、早くー」
アンソニーは羊の背にまたがり、ひらひらとシェリーを手招いている。明らかに乗れる面積が少ないが、シェリーはとりあえずアンソニーの腰に腕を回した。ふかふかした乗り心地の良い羊だ。気をつけないとずり落ちてしまいそうだが、
「シェリーが女の子でよかった。だって、僕の愛馬は一人用だからね」
「え、馬? この子が? 羊にしかみえないんだけど」
メェエ、と羊の鳴き声がした。ほらやっぱり、と思うが、アンソニーは頑としてこの羊を馬だと言い張った。
色々と可笑しいが、この世界の住人であるアンソニーがこれを馬だというのだから、シェリーも馬だと無理矢理思い込むことにする。
「よーしっ、行けえ!」
声と同時に羊…… いや、馬は猛スピードで駆け出した。シェリーはアンソニーの腰にしがみつき、振り落とされないように必死だった。
「しっかり掴まっててね、落ちたら怪我しちゃう」
「わ、わかった」
「もうちょっとだよ」
「うん」
少し顔を上げてみれば、アンソニーの首筋が見える。いつもより少しだけ、首と肩の間に当たる場所に筋肉がついている気がした。意外と男の子らしいその姿にちょっとだけどきりとするが、振り落とされそうになって慌てて再び強くしがみつく。
段差の多い道を走っているようだ。あまり周囲を見ていると振り落とされそうなので、シェリーはアンソニーの背中に頬をつけながら、時々周りを見ていた。森はもう脱出したようで、凄い速さで後ろに流れていく景色は町だった。
「OK、ここだよ! 止まれっ」
アンソニーの声で馬は急停止し、『メェ』と喉を震わせて鳴いた。
「はあ、疲れた……」
「でも結構ふわふわでしょ? こいついい奴なんだ、僕の相棒だよ」
「凄く似合ってると思うよ」
ふわふわした羊と、ちょっと強そうだけれどやっぱり幼げなアンソニーはいいコンビだと思った。シェリーはふらつきながら、背後を振り返る。綺麗な二階建ての家がそこにあった。
観葉植物に囲まれた、何だかとても雰囲気の良い家だった。白い壁にグリーンの屋根がマッチしている。庭にはテーブルと二つの椅子があり、噴水や小さな池もある。二階の窓には白いレースのカーテンが引いてあり、一階の窓は開けっ放しだった。
「ここがメイの家だよ。たぶん留守だと思うけど、一応見ておいで。この笛で呼んでくれれば僕の愛馬が迎えに行くから」
銀色の小さなホイッスルを渡され、シェリーは頷いて礼を言った。アンソニーは羊にしか見えない『馬』にまたがって、風のように去っていった。
残されたシェリーは、門をくぐって芝生を歩き、玄関へ向かう。何だか凄くどきどきした。チャイムがある。そっと指を伸ばして、ボタンに触れたそのとき
「何だ?」
後ろから声をかけられて体が跳ねた。振り返ると、白いスーツのグレンがシェリーを見下ろしている。
「俺に用なんだろ。何だ?」
「っ、グレン!」
心臓が跳ね上がった。一番会いたかった人に会えた。
彼はいつもと少しもかわっていない。白いスーツも似合うななんて、心の隅で考える。
「あ? ……もしかしてファンの子?」
「そう、だけどそうじゃなくって、あたしはグレンのこと、ずっと探してて。グレンのこと追いかけてたら、ここに来て」
しどろもどろになりながら、シェリーは状況を説明した。いや、説明しようとした。
伝えたい事がうまく言葉にならなくてはがゆい。
「意味わかんねえな。お前、今俺より先に俺の家に居ただろ? まあ、とりあえず用があるなら言え」
「そういう意味じゃなくって」
玄関の鍵を開け、シェリーを促すグレン。何だか奇妙な感じだった。こんなによそよそしいグレンなんて、シェリーの記憶には無い。
「あたしのこと、知らないの?」
グレンだったらシェリーのことを知っていてくれる気がしたのに。目の前のグレンは紛れも無く本物で、白いスーツ以外に可笑しいところは何も無いのに、シェリーを見て訝しげな顔をしている。
「知るわけないだろ、初対面なんだから。名前は?」
その瞬間、何かが壊れた。
「っ、もういい!」
シェリーはグレンに背を向け、街の方へ駆け出した。どこに何があるかなんて解らないが、とにかくグレンから遠ざかりたかった。
わかっている。勝手なのはシェリーだ。折角会えたのに、チャンスをふいにしたのはシェリーだ。
けれど、どうしようもなく哀しくなった。『知るわけないだろ』だなんて、そんなあからさまに言われてしまってはもう成す術がない。
あんなに親しみを込めて呼んでいてくれた名前ですら、彼は知らないのだ。泣きたくなった。
右へ右へと走り回っていると、町外れの誰もいない公園に出た。白い薔薇の花が咲く花壇や、綺麗な水を噴き上げる噴水がある。花壇の近くにベンチがあるのを見つけ、シェリーはそこに腰を下ろした。
俯くと涙が止まらなくなった。自分はいったいなんてことをしてしまったのだろう。よく考えればここはいつもシェリーがいる現実世界ではなく、まったく知らない場所なのだ。だからあれはグレンであって、グレンではない。
「……どうしよ」
「お前、本当に意味わかんない奴だな」
弾かれたように顔を上げると、白いスーツのグレンが立っていた。シェリーは立ち上がって逃げようとしたが、グレンに手をつかまれて逃げられなかった。
どう話して良いのか解らない上に、自分はさっきグレンに対して訳の解らない行動をしてきてしまった。
「やっと追いついたと思ったら泣いてるし」 嫌われるくらいなら関わりたくない。
「離してっ」
もがいてみても、グレンの力は強く、振り払えなかった。
「やだよ。名前聞いてない」
「どうだっていいでしょっ、こんな知らない子のことなんか!」
再び涙が出そうになる。こんなことが言いたいんじゃない。
ただ名前を聞いていないという、たったそれだけのことを口実にして追いかけてきてくれるグレンはどこまでもグレンらしかった。それが余計にシェリーを混乱させた。
「よくない!」
びくりと身を竦める。
グレンは怒鳴るついでに、シェリーを引き寄せて正面を向かせた。これでグレンと向かい合う形になってしまった。シェリーは俯き、グレンの足元を見つめた。
どう考えてもグレンは白兎というより白い豹だと思う。今こんな風にシェリーを捉えて拘束しているあたり、ちょっと獰猛な感じがする。
「お前のこと気になるんだよ」
ぽつりと言われた声に顔を上げると、グレンはシェリーを見て複雑そうに笑う。そして少し言いづらそうに斜め上をみて、軽く頭をかく。
「それにさ、さっき酷い事言ったから」
「……え」
「初対面の子にあの口のききかたはないよな。悪かった。俺のこと探してたんだろ」
優しく笑うグレンの胸元を、シェリーは掴まれていない方の手で叩いた。
「初対面なんかじゃないもんっ、グレンは知らないんだろうけど!」
また暴れ出すシェリーを、グレンは今度は両手を掴んで押さえつける。
「それだよ、気になるのは。俺、お前とどっかで会った? 何か、見たことある気がするんだ。それも、街で見かけたとかそういうのじゃなくて、ずっと一緒にいたような……」
気の抜けたような呟きが自分の口から漏れたのを、シェリーは他人事のように聞いていた。
この世界の人間に、自分の存在が知られていたことは今までになかったしありえないと思っていた。今グレンに言ったことだって、半分以上八つ当たりだったのに。
なのにどうして、グレンは知っているのだろう。いつも一緒にいた、アンシェントタウンでの暮らしを彼は覚えているのだろうか?
だとすると、彼はグレン本人なのかもしれないとシェリーは思った。彼は『この世界の』グレンではなく、現実世界でシェリーと一緒にいてくれたグレンだったりするのだろうか。
そうだったらいいと思う半面、そうでなければいいと思う。こんな異世界でグレンに出会えるのならそれはとても運命的だが、グレン本人に名前を忘れられていたなんて、ショックが大きすぎる。 「あ、悪い。変なこと言っちまったな。気を悪くしたんなら謝る」
「そんなことないっ…… あたしのこと、覚えてる?」
「解んない。名前、何だっけ」
「シェリーっていうの。思い出せるかなぁ」
これでは初対面みたいではないか。まあ、この世界のグレンには、まだ自己紹介もしてないないのだが。けれど、グレンだけはこの世界の人間のように思えなかった。スーツ以外はいつものグレンなのだ。混乱する頭では、状況をうまく処理できない。
「俺が好きな花と同じ名前か」
そう言って微笑むグレンを見て、急に胸が締め付けられたようになった。涙があふれて止まらない。こんな風に笑うグレンがシェリーは好きだった。無条件で幸せな気分を共有させてくれる、そんな笑顔だ。
どうしよう。グレンはやっぱりグレンだ。
エルフの集落で初めて出会ったときの印象はお互いに最悪だったと思うけれど、もう一つ別の出会いをしていれば、こんな風になったのかもしれない。
「おい、もう泣くなよ」
「だって、グレンっ」
グレンは困ったように笑い、しっかり掴んでいた両手を離してベンチに腰を下ろした。手招かれたので、シェリーも彼の隣に腰を降ろす。
白いスーツのグレンからは、ハーブの香りがした。たぶん、彼の庭に生えているハーブの匂いだろう。
「お前、俺とどういう関係だったんだよ? きっと大事に思ってたんだろ。聞かせてくれよ」
「うん…… あのね。あたし、この世界とは全然別のところにいて」
白いスーツのグレンを追って、何故かエルフの集落に来て、そこで奇妙なティーパーティーを楽しんだ後にノエルに置いていかれたり、森の中にお菓子の家があったり、羊にのってここにやってきた話をした。
話しているうちに涙は止まった。グレンは真剣にシェリーの話を聞いていた。
「皆、あたしの知ってる人なの。でも、全然違う名前を名乗ってて。グレンだって、本名がメイって聞いてびっくりした」
「別に何も疑問に思ってなかったけどな、俺は」
「あたしにとっては疑問だったの。あたしたち、出逢ったのは去年なんだ。去年の四月の終り。あたしはエルフで、グレンは人間で、でもその後グレンがあたしを生き返らそうとしてくれたから、あたしは人間になって…… ごめんね、言ってること解らなくなってきた」
「続けろよ」
「あたし、グレンのことが出会った日から好きだった」
思わず言ってしまってから、何だか複雑な気持ちになる。ここにいるグレンはグレンだがグレンではない。だから直接本人に告白しているような気分が半分、まったく別の人に話を聞かせている気分が半分なのだ。
「それは俺に対する告白か?」
冗談めかして言うグレンに、シェリーは首をかしげて見せた。
「わかんない。だって、グレンがこの世界の人間なら、現実世界とここの二箇所にグレンがいることになっちゃうでしょ? あたしが好きになったのは、短絡的で直情的で、でもそのくせ人の痛みに敏感なグレンなの」
「どんどん口説かれてる気分になってきたんだけど」
「もう、ふざけるならいい」
「悪かった」
しょげるグレンが可愛くて、シェリーはくすりと笑い声を漏らす。
「とにかく、あたしにとってグレンは大事な人なの。いつも守ってくれて、一緒にいてくれて、楽しい気分にさせてくれるし、哀しいときは一緒に悲しんでくれるんだよ。一緒にいればどんなことだってできるの。一人でいれば、どこにいたって見つけてくれる」
シェリーにとってグレンはそういう人だった。何が起こってもグレンならシェリーを守ってくれるし、困った時には常に解決策を一緒に考えてくれた。
今までこんなに深い愛情を感じたことはなかった。身を粉にしても彼のためになりたいと、心から願えることがシェリーにとっては幸せだった。
そんな人にめぐり合えた事と、そんな人から思ってもらえることが、これ以上ない奇跡だ。
「それじゃきっと、俺にとってもシェリーはそういう奴だったんだろうな」
「そうだったらいいな……」
嬉しそうに前を向いたまま優しい表情を浮かべているグレンが、何だか新鮮だった。なんだか幸せそうな顔だ。自分の話でグレンがそんな表情をしてくれたことが、シェリーにとっては泣きたいくらい嬉しい。
「……お前さ、可愛いよ」
「はあ!?」
シェリーも幸せな気分に浸っていたところに、いきなりそういわれて驚いた。彼は氷河の色をした瞳で、シェリーを優しく見つめていた。射抜かれたように固まる。
「きっとお前のいる世界の俺は、お前にあんまりそういうこと言わないんだろ。何かそんな気がする。だから俺から言っとくよ、お前は可愛い。すっげー可愛い。世界で一番だ」
真面目な顔でそういわれ、シェリーは混乱したし照れた。こんなに恥ずかしい言葉を連呼するグレンは初めてで、やはりこのグレンは違う世界のグレンなのだとシェリーは再認識した。
「ちょっと、やめてよグレン、もう……」
「よろしくな、お前の世界のグレンに」
「うん」
彼は快活な笑みを浮かべる。それはやっぱり、シェリーの良く知るグレンの笑顔だった。つられて笑顔になると、グレンはふと真面目な顔をしてシェリーをじっと見る。
「やっぱりお前のこと、昔から知ってるような気がする」
「嬉しい。だって、貴方もグレンだから」
「何か歌ってみろよ。きっとお前の世界のグレンも歌うんだろ」
そう言われて、さっきマーティンが口ずさんでいた曲を小さく歌いだす。隣のグレンは少し驚いたような顔をしたあと、一緒になって歌ってくれた。時々顔を見合わせて笑う。何だかくすぐったい気分だった。
「……この歌は?」
「グレンがあたしのために書いてくれた曲なの。去年の誕生日に」
「だからかな、俺も今この曲歌いたい気分だった。俺はただ、単純に好きな人がいればいいなって思って書いた曲なんだけどさ」
「すごい! やっぱりあたしたち、どこかで繋がってるのかもしれないね」
そういってみればグレンは頷いた。
「なあ、シェリー」
「何?」
グレンの方を向くと、両肩に手を乗せられた。驚いて彼の顔を見上げると、彼は優しく微笑したまま、シェリーの唇に自分のそれを重ねた。
突然のことでどうリアクションをとって良いか解らず、シェリーは固まって目も閉じられずにいた。
「っ、グレン」
彼の胸を押しのけて見れば、ちょっと寂しそうに笑う彼と目が合う。
どうしよう。グレンとキスしてしまった。しかも、今日会ったばかりのグレンと。全身が熱い。
「じゃあなシェリー。お前に会えてよかったよ」
今度は頬にもう一度口付け、グレンはひらりと立ち上がった。
「えっ? え、やだちょっとまって」
行かせてはいけない。また一人になってしまう。せっかくグレンと再会できたのだ、もっと話していたい。それに、帰り方を誰にも聞いていないではないか。
立ち上がるってグレンの袖を掴む。グレンはすまなそうにシェリーの手を掴み、袖を離させた。
「ごめん、郵便物今日中に届けないといけないから。またな。このままだと別れが惜しくなるし、それに俺はたぶんまたお前に会えると思う」
言い終えると楽しそうに笑みを浮かべて、グレンはシェリーに手を振り、走り出す。
「待って、グレン待ってってば! もうちょっとだけ!」
グレンの姿はあっという間に見えなくなった。シェリーはがっかりしてまたベンチに腰を下ろし、小さくため息をついた。
「もう……」
そんな勝手なところがまたグレンらしいとシェリーは思う。グレンの見えなくなった方角を見つめ、シェリーはまた一人になった孤独を、今度は少し温かい気分で感じた。
08/10/05/
白兎のおとしもの編。アリスは勝手に「メアリ=アン」って呼ばれるから、逆に名前を知られていない設定に。
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