Sherry in Wonderland.-4-
いつまでも座っているわけには行かないから、シェリーはそろそろアンソニーの迎えを呼ぼうとポケットを探った。けれど、あの小さなホイッスルが見当たらない。
「えっ、嘘」
落としてきてしまったのだろうか。しかし、どこをどう走ったか覚えていないから、グレンの家まで帰れない。
とりあえずベンチから立ち上がり、公園内にないか探すことにした。花壇の中にも地面にも見当たらない。けれど、噴水の中を覗き込むと、銀色の何かを見つけた。
腕まくりをして冷たい水に手を入れてみる。しかし、底が深くて指が届かない。
花壇を見渡してみると、蔓性の薔薇のために立ててあった支柱を見つけた。薔薇があまり絡んでいない場所を選んで、一本引き抜いて持ってくる。
支柱を使えば銀色のものはちゃんと引き上げられた。けれど、貰ったホイッスルとは違った。
「綺麗……」
本物かガラスかは知らないが、ダイヤモンドのような石がちりばめられた長方形のロケットペンダントだった。開いてみると、写真が入っている。鳶色の髪に綺麗な緑色の瞳。ノエルの写真だ。
「……ってことはこれ、まさか」
思わず振り返り、振り返った先に少女がいて驚く。ふわふわしたレースのドレスを着た、中世の貴族のような風体のサラである。
「ねえ、貴女がお手に持っていらっしゃるペンダント。見せて頂けませんこと?」
サラはにっこりと笑いながら、シェリーの持っているペンダントを指差す。
「サラ!」
「あら、どこかでお会いしたかしら。私の名前、知ってらっしゃるのね」
可笑しい。サラの言葉遣いが明らかに可笑しい。
「あたしはノエルの友達。シェリーっていうの」
「ノエル様にこんなに可愛らしいお友達がいたなんて! 私は存じ上げませんでしたわ。お会いできて光栄ですわ、お嬢様」
一人称が「わたくし」だ。けれど、こんなサラも可愛いとシェリーは思う。お嬢様らしいのに嫌味っぽさが感じられない。
手に持っていたペンダントをサラに渡した。サラはロケットを開いて中に写真が入っていることを確認すると、大事そうに首につけた。
「助かりましたわ! このペンダントは、わたくしの宝物ですの」
恭しく一礼して幸せそうに微笑むと、サラはブーケをした指先でロケットを撫でる。
「ねえ、サラ。ノエルと一緒じゃないの?」
「貴女が拾ってくださった、このペンダントを探していましたの」
優しく微笑むサラの手首には、港町でノエルが渡したあのブレスレットがつけられていた。
一瞬あたりまえだと思ったが、そうだ、ここは別世界だ。どうしてサラが、現実世界のサラの持ち物を持っているのだろう。
「え、そのブレスレットって」
「ノエル様から頂いたものですわ。この緑色、ノエル様の瞳のようだと思いませんこと?」
「そうだね。良く似合ってるよ」
「まあ、ありがとう」
良かった、サラは別にどこもおかしいところのない、ただの純真な可愛らしい女の子だ。メルヘンチックなノエルと、お嬢様のサラはよく似合うと思う。
サラはふとシェリーの後ろの方へ視線をやった。つられて振り返ると、ここからそんなに遠くない場所に、時計塔が聳えていた。時刻は午後の四時になる。
「いけない、もうこんな時間。ノエル様に会いに行かなくてはなりませんわ。ごめんあそばせ、シェリーお嬢様」
サラは可愛らしい笑みを残し、スカートの裾を軽く持ち上げて駆け出した。ハイヒールを履いた白く華奢な足首が、スカートのレースの波間から時々見える。シェリーはそんなサラを見送り、軽く手を振った。
「って、あたしもこんなことしてる場合じゃない! 何和んでるの、あたし!」
呆れると同時に、サラに笛をみなかったか訊こうと思って駆け出した。
「サラ!」
あのハイヒールにドレスという姿で現れた割に、サラはすぐに消えてしまった。一体どこへいったのだろう。
とりあえず、走りながら銀色の笛を探す。ためしに口笛を吹いてみたりしても羊(馬)が現れる気配は無かったので、探すより他に無いことはわかっていた。
下を向きながら歩いていると、凄い勢いで走ってきた誰かにぶつかった。謝ろうと顔を上げると、ぶつかった相手に両肩をつかまれて激しく揺さぶられる。
「君っ、ちょっと助けてくれ、お願いだ」
「な、なんですか?」
ぶれる視界の恐ろしく上のほうに黒髪が見えた。これは身長的にハビとみて間違いないだろう。
とりあえず、気持ちが悪くなってきたので揺するのをやめてもらわなければ。
「はなしてハビ、何のことか説明して」
「ハビ? 僕はご令息の執事兼教育係だよ。正式名はセド」
「貴方にはハビの方が似合ってるから! もうハビでいいじゃないこれから。ほら、Vの入った名前ってかっこいいと思うの」
これ以上ハビと不毛な議論をしたくなくて、やや強引にそういえばハビは「ああ」と納得したように呟いた。
「君は姓名判断師か何かかな。その力を見込んで頼みがある」
ハビの名前を正した以上、断ろうとは思わなかった。シェリーは何を言われるかと身構え、かなり上のほうにあるハビの顔をじっと見上げた。
「お願いだよ、彼を助けてあげて」
「……彼?」
「そこだよ、時計台の天辺」
「あ!」
それは遠目に見ても明らかに白衣を着た少年だった。いやな予感がする。髪は黒く見えるし、あれはもしかするとミンイェンだったりするのだろうか。
「あの子は?」
振り返ると、ハビは走り出した。シェリーも後を追いながら、ハビの返事を待つ。
「エフ。僕はそう呼んでいるよ。彼は今、自殺するつもりであんなところにいる」
まさか。
彼ならやりかねない。なぜなら、未遂の前科があるのだから。
「だめ、すぐ行くから待ってて! ミンイェン、まだ待ってて!」
思わず叫ぶ。塔の上のミンイェンには聞こえていないだろうが、代わりにハビが首をかしげる。
「ミンイェン? ああそうだ、君は姓名判断師だったね。君ならあの子を引き止められる」
「あたし、どうすればいいの?」
「名前をつけてあげて。今の名前じゃあまりに可哀想だ」
「……もしかして」
嫌な予感がした。
彼の誕生日は、そうだ。
名前にするにはあまりにも不名誉すぎる、あの日だ。
「エイプリル・フール。それが彼の名前」
あまりにもひどい。名前が「馬鹿」だなんて。ミンイェンはれっきとしたインテリだし、馬鹿だなどといわれる由縁はどこにもないはずなのに。
「フールなんかじゃない! どうしてそんなこと言うの? この国の人たちはおかしいよ、どうして全員名前が誕生月がになってるの?」
「女王の命令だからだよ」
「そんな女王様なんかいらない。理不尽すぎる!」
いつしかシェリーは、ミンイェンを自殺に追い込んだ最悪の原因である、女王の存在を疎ましく思うようになっていた。
「僕らはそれでうまくやってこれたんだ」
「でもミンイェンは死にたくなるんでしょ? それじゃおかしいの!」
こんな世界、間違っている。
望まない名前のせいで、自分から命を絶つ決意をしてしまうような状況が起こりえてしまう世界はどう考えても間違っている。名前を考えてやるのは親であり、女王ではないはずだ。
石畳の道を駆け抜け、シェリーとハビは時計塔の真下で止まった。野次馬がたくさんいて、シェリーはその中に心配そうなレンティーノを見つけた。
こういうところでは現実世界と同じなのだろう。ミンイェンとレンティーノは、きっとこの世界でもいい親友でいるはずだ。
「君ならきっと上れる。塔の中の階段を全部上りきるとはしごがあるんだ、そこから屋根へ行ける」
「ありがとうハビ。あたし行ってくる」
「気をつけて」
時計塔の入り口に立つ護衛は潔癖症のライナスだ。彼を突き飛ばして塔の中へ入り、階段をかけあがる。
大きな歯車がたくさんある。その間を縫うように階段は上へ続く。上に行けば行くほど歯車や部品はふえていった。
やがて明るい光が近づいてきた。上の出入り口が空いているのだ。そこからは文字盤に出られる。文字盤に出ると、きっとそこにまたはしごがある。
「ミンイェン、お願い待ってて……」
怖くないはずがなかった。エルフとしての力を失った今、シェリーはこんな高いところから落ちたら死ぬしかないのだ。
時計の文字盤に出る。思ったとおりはしごがあった。遥か下のほうから、ハビの声が聞こえる。
「エフ! 降りてきて!」
すると、上のほうから震えた声が返ってくる。
「もうこんな世界おさらばだよっ!」
ミンイェンの声に間違いなかった。シェリーは文字盤の隅につけられたはしごに足をかける。
下は見ることができなかった。腕が震える。けれど、シェリーは引き返そうと思わなかった。一段一段気をつけて上る。
「ねえ」
はしごをのぼりながら声をかけてみる。屋根の上からミンイェンがちらりと顔を覗かせ、ふとそのままの姿勢で止まる。
「……あれ? 君、どこかで会った?」
もしかしたら、知っていてくれるのかもしれない。
シェリーが“ある時期の”ミンイェンにとって、どれほど大切な人材だったかはわかっている。
「ミンイェンは記憶力がいいから覚えてるのかもしれないね。あたしはシェリー。貴方の本当の名前は、ミンイェンっていうんだよ」
「え?」
「だから、本当の名前。あたし、この世界で皆に本当の名前を教えてあげてる流離(さすらい)の占い師なの」
なんだそれは、と自分でも思う設定だった。けれど、ミンイェンは目をまるくしたまま、しばらく固まっていた。そして、恐る恐るシェリーに手を伸ばす。シェリーはその手を借りて屋根の上に身体を引き上げる。
「こんなとこ上ってくるなんて、君すごい! でも何で来たの?」
「だって、ミンイェンがいるのがみえたから」
「僕は死ぬつもりだったんだけど」
「なおさら止めなきゃでしょ」
そうか、とミンイェンは俯く。彼の白衣は上ってくるときに引っ掛けたのか、少し破れていた。白衣の中に着ているのはちょっと高級そうなスーツの原型で、ネクタイの代わりにスカーフらしきものを結んでいるあたりミンイェンは上流階級なのだと知る。
「シェリーは僕の本当の名前知ってるの?」
「うん。貴方の本当の名前は、ミンイェンって言うんだよ」
「ミンイェン…… へえ、ミンイェン?」
不思議そうに『ミンイェン?』と何度もくりかえし呟くミンイェンが可愛いとシェリーは思う。実際は四つくらい年上なのにだ。
「明るい焔って意味なんだよ」
「僕、ミンイェンっていうの?」
「そう」
「ミンイェンかあ。ミンイェン…… 不思議な響き! 綺麗だね」
「あたしもそう思うよ。貴方にピッタリの名前じゃない?」
屋根の上に二人で並んですわり、眼下の景色を眺めながら話す。何だか可笑しな構図だった。けれど、ここからそう遠くない場所に見える城や、野次馬の中の馬や兵士達を見ていると、自然と納得できた。
「ハンプティ・ダンプティってことか……」
でもそれは確か、兎を追いかけて穴に落ちる童話ではなく、詩の一節ではなかっただろうか。
いや、思い直せばお菓子の家が出てきたあたりから、既に可笑しい。この世界は色々な童話が混じりあって出来ているらしい。
雲の種を育てる童話なんか、シェリーは知らないけれど。
「シェリーは嫌なあだ名つけられてからかわれたことないの? 君みたいな普通の可愛い女の子って、そういう目にあうことなんかまずないと思うけど」
ミンイェンはぎゅっとひざをかかえる。シェリーはそんなミンイェンの背中をぽんぽん叩いた。泣きそうなミンイェンは更に泣きそうな顔をした。
「あたしにもそういうことあったよ。おちこぼれとか、弱虫とか、蝋燭とか」
途端に顔をあげ、ミンイェンは頓狂な声を上げる。
「蝋燭う? 何それっ」
「そう。髪が赤くていつも青白い顔してたから」
「へえ、今の君からは想像もつかないなあ。おちこぼれって、どうして?」
「人と同じことができない体質だったの。エルフのくせに使える攻撃魔法がひとつもなくて」
そういうと、納得したようにミンイェンは頷いた。
「僕ね、名前が『馬鹿』なくせにどうして成績がいいんだって先生に怒られたんだ。馬鹿は馬鹿らしくしてろって。馬鹿のくせに憲法記念日に生まれたご令嬢の成績を抜くなって、ふざけてるよ! 星雲の栽培方法なんて僕じゃなくたって知ってる。この国の起源なんて皆小さい頃から聴かされてる。だいたい、僕のこというなら学者たちはどうなの? みんなご令嬢より頭良いじゃんっ。フールなんて名前がついてるのは僕だけじゃないのに。エイプリルフール生まれの生徒の成績は学年最下位じゃなきゃいけないなんて、馬鹿馬鹿しすぎるよ!」
そんなことがあったのか。
なんてひどいところだろう、ここは。シェリーの中に純粋に怒りの感情が芽生える。
生まれた日で人を差別するなんて、そんな馬鹿な話は今まで聞いたことがなかった。しかもミンイェンの場合、正確な誕生日は四月一日ではないらしいのに。
「そうだよ、ふざけてる。どうしてこの国の人たちはそれが当たり前なの?」
「わかんない。気づいたらこうだったんだ」
だから死にたくなったとミンイェンは言った。シェリーは彼の肩を掴み、首を横に振る。駄目だ、こんなことで死んではいけない。
ミンイェンにしか出来ないことは山ほどある。ミンイェンがいなくなって困る人が山ほどいる。ミンイェンのことが好きな人は、数え上げればきりが無い。シェリーはそう思う。
「間違ってるのはミンイェンじゃないんだよ? ミンイェンじゃなくて、この国の女王様なんだから」
「そんなこと言ったら埋められちゃうよ?」
「いいよ、掘って出てくるから」
そう言って笑ったら、ミンイェンも楽しそうに笑ってくれた。しばらく二人で名前にまつわる過去の話をしたけれど、もう戻ることにした。ハビに心配をかけたことを、ミンイェンは申し訳なさそうに謝る。
「それはハビに謝らなきゃ」
「ハビ?」
「言ったでしょ? あたしは姓名を占うの。あの人の本当の名前は、セドじゃなくてハビなんだよ」
「へえ、かっこいい! セドよりも合ってる気がする」
シェリーが先になって、二人ではしごを降りる。この世界のミンイェンは高いところが全く怖くないらしく、手をすべらせそうになっても意外と落ち着き払っていた。現実世界のミンイェンはきっと怖がってレンティーノを何度も呼ぶに違いない。そしてきっと、レンティーノはミンイェンのためになら高いビルのてっぺんにでも今にも崩れそうな断崖にでも登るだろう。
「シェリー、足元気をつけてね」
「あ、うん」
考え事になっておろそかになった足元が一瞬浮き、ひやりとした。ミンイェンが上から心配そうにシェリーを見ていたので、大丈夫だと微笑み返す。
「ありがとう。ミンイェンって名前。すっごく気に入ったよ! 僕、これから誰に何を言われても、自分のことフールだなんて認めない」
「あたりまえだよ! 大事にしてね、その名前」
貴方の大事な人が、大事に思ってくれてる名前なんだから。喉まででかかった言葉を飲み込み、シェリーははしごの最後の一段を下りた。そして、薄暗い時計塔の中に戻る。またはしごだ。
長いはしごを降りきるとようやく階段になったので、ミンイェンと並んで降りる。一応百六十九センチあるミンイェンだが、現代の成人した若者にしてはちょっと小柄だと思う。それでもシェリーと並べば身長差が二十センチほどできるから、シェリーからすれば立派に彼も長身だ。グレンを見上げる時よりは、いくぶんか顔が近いけれど。
「シェリーは、それ本名なの?」
「そう。本当は苗字がなくて、名前だけなんだけどね。一応スタイナーって苗字を借りてるの」
そんな話をしながら時計塔から出れば、ハビが駆け寄ってくる。野次馬が歓声を上げ、無事にミンイェンが降りてきたことを喜んでいた。そんな光景を見ているとちょっと嬉しくなる。
安堵に表情をほころばせているレンティーノが見えたが、彼の姿は群集にもまれてすぐに消えた。
「エフ! 君はいったいなんて事をしてるんだ、あんな馬鹿なことはもう絶対しないで」
「えへへ、僕はエフじゃないよ、ハビ。ミンイェンって呼んでよ!」
「ああ…… この子に貰ったんだね、名前」
ハビはシェリーを見下ろして微笑んだ。シェリーも微笑み返し、時計塔を見上げる。この位置だと近すぎて文字盤が見えない。
「シェリーありがとう! 何かお礼したいなあ。欲しいものとかある?」
「あ、あたし、銀色の小さい笛を失くしたの。アンソニー…… あの、羊に乗った子に貰ったものなんだけど。マーティンにさよなら言ってないから、一応戻らないと」
「うーん、金属系は探すの難しいと思うよ。この国では、落としたそばから拾われちゃうから」
「そっか……」
「でもサッカー大会の場所ならわかるよ! 今から皆集合すると思うから、一緒に行こうよ」
「本当? じゃあ、連れてって」
「解った!」
ミンイェンは意気揚々とシェリーの腕を取ると、散りかけた野次馬の中へ突入していく。
08/10/05/
ハンプティ・ダンプティ編。
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