Sherry in Wonderland.-5-
ミンイェンに手を引かれ、たどり着いたのは城の前だった。門番と会話し、ミンイェンはサッカー大会のエントリーを始める。どうやらミンイェンもサッカーをするらしい。
「ミンイェン、できるの?」
「えへへ、こう見えて僕って強いんだよ」
ミンイェンは破れた白衣と高価そうな上着を脱ぎ、シェリーに預けて笑う。
「シェリーは観戦しててよ。女の子の参加は強制じゃないから。女王は女の子には優しいんだ」
「へえ……」
ミンイェンは楽しそうに駆けていった。その後ろを、サスペンダーつきのズボンにワイシャツという格好のハビが追いかけていく。
「行っちゃった」
ハンプティ・ダンプティは塀の上から命を落とし、とりかえしのつかないことになった。
しかしミンイェンは、名前という単純明快な答えによってみごと生を勝ち取った。素晴らしいことだ。
「そこで何をしている」
いつのまにかコート内にいたシェリーは、背後から怒られた。慌ててラインの外に出て自分に声をかけた相手を見上げる。
「あっ」
「何だ、貴様。俺にたてつくのか」
長身に睨み降ろされ、思わず怯む。グレンに良く似た金髪碧眼の、美貌の長身がそこにいた。
「そうじゃないよ。ねえ、イノセントだよね」
「何を言っている、この小娘は」
いやだ、こんなの。シェリーはそう思った。
こんな饒舌で冷たいイノセントはいやだ。イノセントはもっとクールで無口でぶっきらぼうで、それでいて優しいブリジットの旦那さんなのに。
「貴方の本当の名前はイノセントなの」
「俺の名前はジュノー、人違いだ」
「それは女神の名前でしょ? いいの、女性名で」
「放っておけ」
「絶対イノセントの方が合ってるよ」
「うるさい、名前のことには突っ込むな」
成る程、イノセントも名前にコンプレックスを持っているらしい。
ならば話は早い。
「イノセントって名前はね、純潔って意味なんだよ」
「ふむ」
「それに、ジュノーよりも響きがクールだし」
必死に本当の名前を売り込み、シェリーは満面の笑みを浮かべてみせる。
「貴様は何だ」
じろじろと胡散臭そうにシェリーが抱えたミンイェンの上着と白衣を見つめ、イノセントは言った。
「姓名判断師。あたしの名前はシェリー」
「生意気な小娘だ。だが、その名は気に入った。今夜にでも改名を許可してもらおう」
「そっか、ならよかった! ねえ、ブリジットは一緒じゃないの?」
どこの世界にいるとしても、イノセントはブリジットと一緒であるような気がする。サラはノエルと一緒だったし、自分だってグレンと一緒だった。
しかし、イノセントの反応は思わしくなかった。
「知らんな。自分で探せ。大体、誰だその女は」
「……ひどい。自分の奥さんのことも知らないの?」
「俺の妻は女王だ」
「は?」
思わず抜けた反応をしてしまった。イノセントはじろりとシェリーを睨み降ろす。
「女王だといっている。俺はこの国の王だが、女王制のこの国ではほぼ権力が無いに等しいからな」
「ってことは、あのひどい女王ってブリジットのことだったの?」
「貴様、無礼者!」
「そうじゃないよ!」
胸倉を掴まれそうになり、必死で回避しながらイノセントを見上げる。
「だって、おかしいでしょ? 名前がフールだったら馬鹿じゃなきゃいけないなんて。あたしそんなの間違ってると思う」
「女王はそんな法律を立てたことなどない。国民が曲がった解釈をしただけだ。これ以上俺の妻を侮辱すると牢屋へ送り込むぞ」
「そんな、じゃあ、どうしてミンイェンは」
「貴様は世間知らずの温室育ちだろう。出直して来い」
「……っ!」
世間知らずの温室育ち。
そんな風に侮辱されたことは今までなかった。シェリーは涙があふれそうなのを堪え、イノセントに背を向けて駆け出した。
ぬくぬくと暮らしていた自覚は無かった。何でも一人で出来るようにずっと努力してきていた。孤独にもなれているはずだった。世間知らずだなんていわれたくはない。
けれど、そうかもしれない。長い間ずっと深い闇を見てきたイノセントからしてみれば、シェリーは十分に温室育ちなのかもしれない。
「はいはい待った待った、どこ行くのお嬢さん」
背後から着いてこられる気配があり、思わず振り返るとクライドがいた。
「クライド!」
「違う、俺はウヅキ」
「うづき?」
ああ、卯月のことか。納得すると、クライドは怪訝そうな顔をした。
「クライドってなんだ? 浮気相手? そりゃないぜ、グレンがいながら」
「グレンを知ってるの?」
「当然。古くからの友達。さっき会って、お嬢さんのこときいたよ。シェリーだっけ」
クライドは気さくに笑う。ちょっと性格が軽くなった気がするが、それはいつものクライドの笑顔だった。
「そう、あたしはシェリー。クライドはあたしの初めての友達なの」
「へー、じゃあグレンは初彼?」
「そう」
「で、なんで俺がクライドなんだ?」
シェリーは自分が姓名判断師だと告げた。そうして、ひたすら感心しているクライドを見上げて告げる。
「ウヅキはクライドの本当の名前じゃないの。本当はクライドなんだよ。遥か遠くから聞こえる音って意味なんだ」
言ってみると、クライドは楽しそうに笑った。
「へぇ、かっこいいじゃん」
何だかいつもとちょっと違うクライドに、微妙に戸惑う。若干グレンが交じったような感じだ。けれど、この世界のクライドは目の前にいる彼なのだ。
「でしょ? ねえクライド、クライドはサッカーしないの?」
「俺? 今は休憩。次の選手交代で中入る」
背後のグランドをちらりと見ながら、クライドはにこりと笑う。
「グレンはいる?」
「あいつは今もどこかを走り回ってるよ、手紙を届けにいったな」
白いスーツで駆け回るグレンが脳裏をよぎる。
「ノエルは?」
「ノエル? ああ、ディスか。あいつは夫人っていうよりお嬢さんな夫人のところで今頃は踊ってるんだろうよ」
今度は雪雲のネクタイを結び、小さなシルクハットでめかしこんだノエルが脳裏をよぎった。そして彼は、可愛らしいドレスを身に纏ったサラとやさしいひと時を過ごすのだろう。そこには略奪とかそういうどろどろした言葉が似合わないくらい、穏やかで心地よい時間が流れているに違いない。
「そういえばパーティーだったね」
話をしながら、この世界に飛び込んできてから随分と時間が経っていることを思い出した。早く帰らないと現実世界のグレンに心配をかけてしまう。
「サッカーには女の子の参加が強制じゃないから、お嬢さんはパーティーを開けるんだよ。そこにディスが行くのは本当はいけないことだけど、職業上あいつはあまり家を離れられないからな」
「どうして?」
「雲の餌を切らすと死んじゃうから」
「そうなの!?」
初めて聞いた。雲は死ぬのか。
けれど、餌をやるということは生きているということなのだろう。不思議な世界だ。
「そうだよ。だから育てるのが凄く難しいんだ。たぶん餌やりくらいなら仕立て屋が手伝ってると思うけど」
「へえ、レンティーノが餌あげるんだね」
「レンティーノ? ああ、お嬢さんは姓名判断師だったね。仕立て屋にも名前をあげたのか」
一瞬けげんそうにしたクライドだが、何だかえらく物分りが良い。というか、飲み込みが早い。シェリーが姓名判断師だということも、胡散臭く思わないらしい。
「そこでサッカーやってる前髪長い子はミンイェンで、その隣の大きい人がハビ。国王はイノセントっていうの。羊に乗った金髪の子はアンソニー。それから、森の奥でお菓子の家に住んでるのがマーティンね」
お菓子の家のマーティンはまだシェリーの帰りを待っていてくれるのだろうか。彼はシェリーのことを微妙に気に入ってくれたようだったし、あの甘い香りのするお菓子の家にももう一度行きたい。アンソニーの愛『馬』にももう一度乗ってみたいし、できればグレンの仕事がどんな風なのかみたかった。
けれど、現実世界でシェリーを探し回っているグレンを思うと、早く帰りたい気持ちのほうが強くなった。
「おお、なんかそれぞれそれっぽい名前がついてるな」
「だって本当の名前なんだもん! ノエルが好きな公爵夫人はサラっていうんだよ」
クライドは、そこでふと城の方を指差す。
「女王の名前は?」
「私、まだ女王陛下には会ってないの。でも、絶対ブリジットだと思う」
「ふうん。じゃあさ、会ってこいよ。今もあの高い塔の上からサッカーを見てるから。特に夫のジュノー…… じゃない、イノセントか。彼がゴールを決めると凄い勢いで喜ぶんだよ」
ウヅキー、選手交代! と言いながら走ってくるのは漁師町で見かけた少年だ。ただ、シェリーの知り合いではなかった。
「じゃ、俺行くよ」
「ありがと、クライド」
「何だか知らないけど、グレンと仲良くやれよ」
「うん。大丈夫だよ」
手を振ると、クライドは満面の笑みを残してチームの中へ混ざっていった。相手チームにはイノセントがいる。二人はにらみ合うようにして対峙していたが、どちらも凄い勢いでボールを取り合い始めた。周囲のプレーヤーも交じり、軽く乱闘に近い状態になって唖然とする。
背後を振り返れば、人気のない門がある。門扉は閉じていたが、衛兵はいない。シェリーは急ぐ必要もないのに小走りで、門を開く。
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08/10/05/
クリケット大会もといサッカー大会編。
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