Sherry in Wonderland.-6-
ミンイェンの上着と白衣を持ってきてしまったことを後悔した。どうしようかと思いながら辺りを見回す。ひっそりと静まり返った城内は、こころなしか少し冷えていた。
「何用じゃ」
「ひゃっ」
耳元で聞こえた声に飛び上がる。
「わしは城の番人、ノヴ・ハルフ。そなたは」
明らかに聞きなれたバリトンボイスだったが、喋り方がかなり変なことになっている。これは、ウルフガングのはずだ。
「あたしはシェリー、姓名判断師です」
言いながら振り返れば、シャツの首元にスカーフをはさんだようなファッションをしたウルフガングがいた。しかも、左目にモノクルをつけている。どうやら王家に仕えるものの一人らしい。
今まで出会った人々の中では、マーティンと同じくらいに別人度が高いと思う。
「ふぅむ。では、ひとつわしの名前も占っておくれ」
気さくなところは変わらないのか、ウルフガングは上機嫌で訪ねてくる。シェリーは一瞬だけ迷ってから、名前を考えているふりをした。
「えっと…… そうですね。貴方には、ウルフガング=フローリーという名を。太古の大魔導からとった名です」
「ウルフガング…… ちと硬いのう」
「じゃあ、ウォルならどうですか? 愛称なんです」
「いやあ、気に入った! さすが、そなたも名前負けしとらんの」
空疎な手でシェリーの頭を撫でるウルフガングを見上げ、シェリーは首をかしげた。
「名前負け?」
「シェリーの花ことばは、気品と聡明さじゃよ。そなたは実に聡明なおなごじゃ」
「そうですか? あ、ありがとうございます。あの、ウォル。あたし、女王様に会いたいの」
この世界にはシェリーという花があったのだった。忘れかけていた、グレンが好きな花が自分の名前だという嬉しい偶然があったのに。
「案内してくれようぞ。ほれ、荷物も預かろう」
幽霊のウルフガングはミンイェンのはくいと上着を音も無く抱え上げると、そのまま階段を上っていく。シェリーもそれについていった。
迷宮のような城だった。中に入り込んだら迷ってしまいそうだ。そのうえ、今はサッカー大会に借り出されているのか人がいない。どこまで階段を上っても、人の姿どころか気配や声すらしない。物音もせず、しんとした空間がどこまでも続いていた
だんだん怖くなってきた。もしかしたら、この階段や廊下には終りが無いのではないだろうか。
「ここじゃぞえ」
不意にウルフガングの姿は消え、楽しそうに笑う声が後頭部辺りでした。振り返るともうそこに彼はいなくて、シェリーは一人で取り残されていた。
豪奢な扉を前に、シェリーはどうしていいか迷う。とりあえずノックしてみようと思ったが、扉は厚そうだ。大丈夫なのだろうか?
すっと手を首の辺りまで上げると、ひとりでに扉が開いた。驚いて一歩下がると、窓から退屈そうに外を眺めている見慣れた黒髪の美人がいた。
「あら、誰かしら」
豪華な調度品で飾られた部屋の中で、ひときわ目立つ艶めいた髪。真っ先に目を引いた。
こちらを振り向いたブリジットはまさしく絶世の美女だった。
髪もドレスも真っ黒で、ドレスはスカートをふんわりと膨らめてある。胸元は広く開いているし、腰はきゅっと締まっているし、彼女の見事なプロポーションをかなり強調したドレスだ。レースやフリルや刺繍のしかたも豪華で、とても華美だった。
いつも色気と気さくな雰囲気を併せ持っている彼女だが、今は大人の色気がはるかに勝っている。
こんな色気たっぷりの彼女が妖艶に微笑みかけたら、あの堅物のイノセントもきっとたじろぐに違いない。
カラーコンタクトは外して銀色の瞳を隠さずにいるのが、余計に幻想的な雰囲気を放っていた。頭には宝石で煌くティアラを載せていて、雰囲気は完全に堂々たる女王陛下だ。
「あ、あたし、姓名判断師のシェリーっていいます」
思わず見惚れてしまって、返事がおろそかになった。しかしブリジットは気にもしていない様子で、シェリーの方を見て微笑む。どきりとした。
「可愛い子だわ! 入ってきて良いのよ、私は女の子大好きなの」
ブリジット、それはちょっと問題発言なんじゃない? そう喉元まででかかったが、シェリーは堪えて一歩踏み入る。背後でドアがばたんと閉まった。
「私、退屈なのよ。ジュノーが勝つのは目に見えているわ。皆遠慮するんですもの。ほら、またパスがきたわ」
それでもイノセントがキックを決めると、ブリジットは無邪気に喜んでいた。イノセントが照れたようにブリジットに手を振り、ブリジットは彼へ愛の言葉を送る。最早、雰囲気は新婚夫妻だ。
「あ、女王様。彼の本当の名前は、ジュノーじゃなくてイノセント。意味は純潔なんだよ」
「本当の名前? 天運は月によって決められるのよ、シェリー」
しなやかな指でシェリーの髪をなでながら、ブリジットはくすくすと笑う。その笑い声だけでなんだかドキドキする。色気たっぷりの、大人の女の余裕を感じた。
「でも、その人にはその人をあらわす大切な名前があるの」
「そうねえ、つけたければ、勝手につければ良いのよ」
「じゃあ……」
「私、国民はみんな家族だと思っているのよ。兄弟には統一性のある名前がほしいじゃない」
ブリジットは優しく笑う。裏も含みも無い笑顔だ。
「みんな統一されてるよ、アルファベットで表現できるっていう点で。語感も」
「そうね、イノセントも気に入ったことですし。ジュノーも良いけれど、彼はとっても純真だわ」
「じゃあ」
「私はクイーン・ジュノー。夫とは同じ名前なのよ。折角名前が同じなのに、別々になってしまうのは惜しいわ」
シェリーは固まった。ブリジットも六月生まれだったのか。
奇しくもシェリーも同じ六月生まれだ。イノセントとは五日しか誕生日が違わない。
「だって、他に似通うところがあまりにも無さ過ぎると思わない? イノセントは金髪。私は真っ黒。瞳は銀色。彼は青よ。駄目じゃない、ひとつもかぶらないわ。身長も体格も違いすぎて、比較の対象にすらならないの。同じなのは、生まれた月だけ」
憮然とするブリジットだが、シェリーは挙動に困った。
「違いを認め合うことも大切だと思うよ」
「でも同じが良いのよ、解らないかしら? 彼と同じ髪の色をしていたら、とてもつりあうわ」
確かに金髪のブリジットは美しいかもしれない。けれど、黒髪だからこそこんな風にしっとりと艶めいた色気が出るのだと思う。
白い肌にかかる黒髪の感じはイノセントのような金髪やシェリーのような赤毛では出ないコントラストを放っているし、金髪ではちょっと軽い感じになってしまう気がする。
「女王様、あたしは彼と色が全くかぶらないの。でも、だからこそ良いって思ってるんだよ」
金髪に青い目をしたグレンはとても格好良い。シェリーはこの赤毛を彼に褒めてもらえるし、銀色の目も灰色になった目も良いと言ってもらえている。
「あら、どうして?」
「あたしにないものを彼が、彼に無いものをあたしが持ってるって思えるの」
「素敵な恋愛論じゃない!」
こういうブリジットはいつものブリジットらしかった。頼れる大人のお姉さんだが、ガールズトークには女の子のように乗ってくれるところが彼女らしさなのだ。
「女王様、あたし貴女に名前をつけてみたいの」
もうその場のノリだった。このチャンスを逃す手はないと思い、シェリーは口走る。ブリジットはにこりと笑った。
「いいわよ、可愛い姓名判断師さん。私の国に姓名判断師は一人もいないのよ、私を除いて」
「そっか、月で決まっちゃうから……」
その瞬間、窓の外で大歓声が上がる。イノセントがPKで見事にキーパーのハビを退けたらしかった。また大はしゃぎするブリジットを暫く眺め、彼女が落ち着いたところで本題を切り出す。
「貴女の名前はブリジット。女王様の気品に合う、聡明で綺麗な響き。どうでしょう?」
ブリジットは黒髪を指でなでながら、ううんと唸る。
「ブリジット、イノセント…… Tが共通してるわね。語感も何となく似てるわ。いいじゃない。私はクイーン・ブリジット・ジュノー。イノセントは、キング・イノセント・ジュノーだわ」
「かっこいい!」
そういった瞬間、鐘の音が響いて驚いた。びくりと肩をすくめるシェリーを、ブリジットが上品な仕草で笑う。
「驚きすぎよ、時計塔の鐘の音なの。六時になったわ」
「六時!?」
いけない。グレンが心配する。
「あたし、帰らなきゃ」
身を翻すと、綺麗な宝石をあしらった指輪を嵌めた手がシェリーを掴んだ。
「まあ、何処へ? 私がここで面倒を見るわ」
「駄目なの、あたし彼のところへ帰らなきゃ」
ブリジットは首を横に振る。シェリーは絶望的な気持ちになる。
「いいえ、いけません。貴女は私の専属姓名判断師になるのよ。これから生まれてくる国民の名を、一人一人占ってもらうわ」
「そんなの困る!」
「私に逆らうつもりかしら」
心なしか声音は低くなっていた。強く腕を引かれる。
助けを求めて外を見る。もうすっかり日の暮れた城の庭に、外灯の明かりが灯っていた。そしてその外灯のすぐ下に、金髪の男を見つける。
「グレン……!」
すぐ隣にイノセントがいて、何事かグレンに告げていた。グレンは肩をすくめ、イノセントに手を振っている。
グレンは薄暗い中ではよく解らなかったが、明らかに白いスーツを着ていなかった。
「グレン、助けて!」
「駄目よ、貴女は私の臣下だわ」
ブリジットに抱きすくめられるようにされた。しかし、自力で窓辺に縋る。後ろからすごい力で引きとめられるが、シェリーはもう窓から身を投げる寸前だった。
「グレンっ」
「飛んで来い、シェリー」
グレンは悠然と言った。無茶だと思った。首を横に振る。
「大丈夫だ、ちゃんと俺が受け止めるよ」
グレンは真剣な目をしていた。シェリーは真剣に見つめ返した。
ドアが開く音がした。イノセントがブリジットを夕食に呼びにきた。シェリーに対する反応はなかったが、ブリジットはシェリーを連れて行くといった。
「大丈夫だから」
考えてみたら、ここから地面までは相当な高さがあるはずだった。
それでもグレンと普通に会話できているこの状態は一体なんなのだろう。
気づくと城の庭には今まで出会った知り合いや友人達がいて、シェリーを優しい目で見上げていた。
サラとノエルは幸せそうに手をとりあっている。アンソニーは羊にのっている。シェリーが失くした銀色の笛は、彼の胸元にかかっていた。レンティーノは上着と白衣をちゃんと着たミンイェンの背後に立ち、彼の肩に手を添えている。
「みんな」
「お前には帰るべき場所があるんだ」
クライドが言った。ミンイェンの隣にいたハビが頷いた。マーティンはタバコの代わりにキャンディをくわえながら、ちらちらとこちらを窺っている。
「おいシェリー。名前、嬉しかった。礼を言う」
「ほんと? ごめんねマーティン、帰れなくて」
「今度来る時には、ちゃんと俺の家までの道のりを覚えな。もう二度と帰りたくなくなるくらい美味いスイーツ、作って待っててやる」
お菓子の家のマーティンは、いつもどおり皮肉めいた笑みを浮かべてシェリーに手を振った。シェリーも手を振り返した。
「ブリジット」
背後でイノセントの声がした。シェリーの記憶の中で、初めて彼が女王の名を呼んだ。
「イノセント。私、この子がどうしてもほしいのよ」
ブリジットがシェリーを抱きすくめる力が強くなる。
「知っているだろう。彼女はよそ者だ」
「よそ者なんて言い方酷いわ。せっかく私の国へ来てくれたんじゃない」
窓の外ではグレンがシェリーを真っ直ぐに見上げていた。
「飛べよ、シェリー。お前ならできる」
「で、でもっ」
「そなたは守られておるよ。安心せい」
耳元で聞こえた声に、ぴくりと反応する。ウルフガングは楽しげに宙に浮いていた。城の窓のすぐ外だ。そして、グレンの方を指差す。
「そなたの帰る世界は、あやつの腕の中じゃ」
「えっ?」
「あやつの持つ、懐中時計じゃよ」
確かに、グレンのジャケットの裏地に、外灯の光を受けて淡く輝く鎖がかかっているのが見えた。
「そなたのことを待っておる者がいるじゃろう」
深く澄んだ眼差しだった。彼に向かって頷くと、シェリーはもう一度、この世界の皆の顔を目に焼き付けた。
いくぶんか変わってしまっているが、やはりそれはかけがえのない皆そのものだった。別の側面から見れば、いつもの彼らはこんな風にちょっとおかしな感じになる。全くの別人というわけでもないのだ。
「飛ぶんじゃ、シェリー」
ウルフガングはフワフワと浮遊し、外灯の辺りまで急降下していった。グレンが小さく頷いた。シェリーも頷き返す。
「ブリジット、ありがとう。嬉しいよ」
体を捻り、後ろを見てシェリーは言った。ブリジットは哀しそうに目を伏せている。
「折角出会えたんですもの、もっといて頂戴」
「駄目なんだ。あたしには、待っててくれてる人がいるの」
「急げシェリー、あと二分だ」
一体どの基準でそんな計算が出来たのかとイノセントを一瞬訝ったが、彼は彼なりに不器用ながらもシェリーを元の世界に返す手伝いをしてくれているのだ。何だ、彼もやっぱり彼だ。
「ありがとうイノセント、ブリジットと幸せにね」
「無礼者。女王に向かってなんて口のきき方だ」
口調こそぶっきらぼうだったが、顔は笑っていた。こんな笑顔で接してくれるイノセントなんて初めてだと思いながら、シェリーは窓枠に腰を乗せた。
ブリジットがまたシェリーを止めようとしたが、イノセントが彼女の手を掴んで首を横に振る。
ちらりと見えた部屋の内装の一部に、もう砂が全て落ちかけている砂時計が見えた。
ああ、あれだ。きっとあれが、この世界とシェリーの世界を繋いでいる時間を示すものなのだ。
「グレン、待っててね!」
どっちの世界のグレンに向けていった言葉なのか、最早自分でわかっていなかった。白兎のグレンは優しく頷いた。
「いつかまた会うときは、グレンも連れてこい」
深い眼差しでシェリーを見つめ、グレンはシェリーに向かって両腕を広げた。シェリーは窓枠の上に立ち上がると、勢いをつけて窓枠を蹴った。
08/10/05/
ハートのクイーンとの対決編。
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